一週間も前から予報をチェックしていたとはいえ天候の変わりやすいワイルドエリアには関係のないこと。土砂降り猛吹雪でなければいい、せめて多少の雨なら許容範囲内。それくらいでお願いしますと願ったのは昨晩で三日目。カントー地方では天気と言えば晴れが当たり前で、空が厚い雲に覆われ太陽が顔を出さない日や、雨の日なんて気分もどんより。だったのが、ガラル地方では天気が悪いのは当たり前。当たり前は言い過ぎかもしれないけれど、パラパラと雨が降ったりやんだりなんて日常的で普通のこと。当たり前、普通、日常的。地域が異なれば、人が違えば道徳や倫理の常識も変わる。貴方の常識、他人の非常識とはよく言ったものだ。部屋の窓辺に飾ったてるてる坊主をキバナさんが見たなら、なにこれ?ポワルン?なんて言いそう。
迎えた当日は絵に描いたような絶好のキャンプ日和で、むしろこの晴天をキバナさんが背負ってきたとしか思えない。わたしの心配なんて元よりなかったかのように無に帰した。やはり持っているのだこの人は、まぁ恐らくガラルではダンデさんの次に、ではあるだろうけれど。なんて、絶対本人には言えやしない。

「そういやチョコ、ありがとうな。美味かった」

本格的なテントではなく一時的に日差しを遮れる程度のシェードセイルを設置しながら、思い出したとキバナさんがわたしを向く。

「ジムのスタッフにも好評でさ」

ふふ、とジムスタッフさん方の反応を思い出して笑うキバナさん。仲が良い事はいいことだ、微笑ましい。わたしも自然と笑みを浮かべる。それに、自分のお気に入りを褒められて嬉しくならないわけがない。

「そうでしたか、良かったです」
「でもあれ、カントーにしか売ってないやつなんだろ? よかったのか?」

えっ、どうしてそれを知っているのか。記憶にはないけれども、もしかして世間話ついでに知らず知らずの間にカントー地方にしか売っていないと、気を遣わせるようなことをこぼしてしまったのかも。会社の営業課の方々に知られでもしたら、こっ酷く怒られるだろうほどの失態だ。あからさまなわたしの困惑に、キバナさんは慌てて違う違うと手を振り否定してみせる。

「ジムの子が載ってる雑誌を見せてくれてさ」
「ざっし」
「そう、カントーで人気のコスパ最強チョコ!ってな」

そう、お値段の割に安っぽくなくて、しかも抹茶の濃度が違うチョコレートがセットになっているのも魅力なのだ。差し入れにもプレゼントにも丁度良い。あのお値段で贅沢気分を味わえるそのひと時が最高に幸せ、なんて流石に貧乏くさいだろうか。

「まぁもう食べてしまって返せるものはないんだけどな」
「わたしはカントーに帰ればいつでも食べれますか、あっ」

はた、と気付いてしまった。雑誌を見た、という事は、つまりは値段を知られてしまった、ということ。

「どうかした?」
「オレさまに安物食わせやがってと思いました?! ごめんなさい…!」
「くっ、ははは! なんでだよ! 思ってねぇよ!」

少し驚いた。控えめに笑う印象のキバナさんが大きな声で笑うものだから、こんな風に笑ったりもするのかと意外な一面を見れた事に優越感を抱いてしまう。あぁいけない、その発想が勘違いの元になってしまうのだから、気を付けないと。
木陰で涼んでいたジュラルドンが私の方をちらちらと伺いつつ、キバナさんに歩み寄る。

「うん? なんだよジュラルドン」

キバナさんに体を摩られ、気持ちよさそうに目を細める。
いくらキバナさんの手持ちの子達が普段から写真を撮られ慣れているとは言え、バトルでもない休みの日に初対面の人間と一緒なんて警戒もするだろうし、カメラを向けられては意識をして自然体を撮るのも難しいだろう。今日は一日ワイルドエリアでゆっくり過ごすことで、わたしの存在に慣れて貰えたらいいのだけれど、貴重な一日を頂いてしまう事に申し訳なくも思う。
シェードセイルの設置を終えたキバナさんからステンレスのマグカップを受け取り、アウトドアチェアに腰を下ろす。一仕事、という程でもないけれど身体を使った後のコーヒーはなんて良い香りだろう。それがインスタントだとしても関係ない。
一口、口に含み驚いた。インスタントのはず、だったはず。

「あの、このコーヒー、インスタントですよね?」
「そうだけど、口に合わなかった?」
「いえ、すごく美味しくて」

わざわざキバナさんが挽いたものを準備してくださったのかと思ってしまった。けれどアウトドアテーブルに置いてあるのは、確かにインスタントの瓶。私もたまに買うメーカーの物。家で飲む時はこんなに美味しいと思った事は正直なかった。インスタントのコーヒーなんて、感覚としては水を飲むようなものだ。

「ワイルドエリアで、こんなに贅沢をしているからかもしれません」

何の心配もなく、アウトドアチェアに座っている。それだけであまりに贅沢。

「いつもは一人で撮影に来るのか?」
「はい。でもわたしバトルは得意じゃないですし、万が一の事を考えると一歩退けてしまって日中しか撮影した事がないんです」

太陽を浴びてキラキラと輝くキバ湖が、いつもよりも特別に見える。

「こうやってワイルドエリアでゆっくりするのは、初めてです」

言うか言わまいか一瞬考えて、気恥ずかしい気持ちから手元のマグカップに視線を集中させて言葉を紡ぐ。失礼のないように、それを危惧しても伝えたい想いがあった。

「実は、ポケモンバトルには疎くて、ダンデさんとキバナさんを知ったのもガラルに来てからなんです」

出身地のカントー地方よりもガラル地方のポケモンバトルはエンターテイメントだった。初見は目で追いかけるのがやっとで、どちらが勝ったかも分からずに興奮したのを昨日の事のように覚えている。ワイルドエリアの存在を初めて知った時の昂りと、とても似ている気がした。

「それまではバトルなんて怖いなってイメージが強くて、見た事もありませんでした」
「今でも、怖い?」
「少し」

ポケモンたちが傷つく姿だけは、慣れそうにもない。

「けれど今はわくわくが勝ります。バトルをしている時のポケモン達は、また違った美しさがある」

日常を穏やかに暮らす彼らと違った、一見獰猛でありながら凛々しく躍動感に満ちた、洗練されたしなやかな動き。もっと早くにこれを見ていればと思ったし、それでもガラルのポケモンバトルでなければこんなにも魅入られなかったように思う。

「キバナさん、ダンデさんにずっと負けていらっしゃるって」
「あ、笑ったな」
「違うんです! 思い出して」

引越してきたはいいけれど、ワイルドエリアどころか就職先がなかなか決まらず夢の場所を目前に心が折れそうになっていた頃、キバナさんの存在を知った。試合中どころか、勝敗は決まったも同然の敗北という結果が明確になった瞬間でさえ、最後までキバナさんの瞳の炎は絶対に消えない。

「ダンデさんに負けても、負けても、キバナさんの心は挫けない、俯かない」

立っている世界が違う、次元が違う、目標のレベルが違う。自分と比べるのはお門違いもいいところ。それでも、あの時落ち込んでいたわたしにとって、前向きになる切欠をくれたのはキバナさんだった。

「わたしも自分の夢、諦めないぞって奮い立てせてくださったのは、キバナさんなんです」

そして宝物庫から展望したワイルドエリア。キバナさんと出会わなければ、一緒にランニングをして他愛の無いお喋りをするような関係にならなければ、きっとわたしは夢の事も日常生活の慌ただしさに紛らせて、忘れてしまっていたように思うのだ。

「わたし、二度もキバナさんから活力を貰っちゃってるんですよね」

顔を上げるとキバナさんは、ぽかん、とほうけた表情をされていて。いけない、勝手に熱くなってとてもつまらない話をしてしまった。そしてとてつもなく恥ずかしい。

「すみません、余計なお喋りを」
「え、いや、」

肩にすりっと何かが触れて、咄嗟に身を引き振り返ると、間近にいたのはキバナさんのフライゴン。大きな瞳をぱちぱちと瞬きさせ、首を傾げる様子はなんとも愛らしい。パーカーをくいくいと引っ張られてしまっては、いても立ってもいられなくなる。何よりも、この場の空気をかえてくれたこの救世主に感謝しかない。

「一緒に遊んでくれるの?」
「フリャッ!」
「キバナさん、手持ちの子達と遊んでも」
「あぁ勿論、気をつけてな」
「ふふ、キバナさんったら、わたし子供じゃないんですから」

靴とソックスをその場に脱ぎ置き、キバ湖の畔に駆け出す。

「よーし! じゃあわたしも水遊びしちゃおっかな!」

先にはしゃいでいたヌメルゴンに両手で掬った水をかけると、きゃっきゃっと楽しそうに跳ね上がる。可愛い、えっ、可愛い。想像を絶する可愛さに見惚れてしまう。そうしていたら、お返しに倍以上の水を頭から被り呆然とそこに立ち尽くす羽目となった。着替えは、持ってきていない。