オーダーメイドのスーツと、手にはベタに薔薇の花束。バレンタインでもないのに少し浮いた気はしたが、愛を捧ぐといえば赤い薔薇。それ以外が考えられなかったわけでもないし、重いかともキバナは思ったが、やはり赤い薔薇には特別感があるだろう。

キバナの本質とは裏腹に、派手で騒ぎ事が好きな印象がすっかり定着してしまっている彼は、実際に薔薇の花束を誰かに贈った事など一度だってなく、花屋で薔薇をオーダーする時のなんとも言い難い緊張感に何度生唾を飲み込んだことか。作業する店員を眺めながら、はどんな顔をするだろうか、とか、今ならまだやめても、と弱気になったり。格好悪いことに、そうウダウダとしているあっという間に綺麗にラッピングされた花束を受け取って、気が付いた時には半ば呆然としたまま帰路に立っていた。バレンタインの季節、雑誌の特集で薔薇の花束を持って撮影した事があった。あの時用意されていた花束はこんなにもずしりと重かっただろうか。もう後戻りはできない、するつもりもないキバナだが、それこそようやく意を決したというか、この日の為にと準備したものに囲まれ逃げ場を遮断し己を追い込みでもしなければ、ネガティブに考え動けなくなる自分がいたからだ。の事になると、どうも卑屈になってしまう。失いたくないからいつもの自信家でいたいのに、失いたくないからこそ悪い方へと考えてしまう。

玄関先の鏡で最後の身嗜みチェック。曲がってもいないネクタイを調整して、乱れてもいない前髪を弄り、最後に大きく深呼吸。足元は、昨晩丁寧に磨いた革靴が照明の明かりを反射させ艶めく。

「ふー…、よっしゃ!」

鏡に写る笑顔は、いつもの自信家のキバナ。

「あーっ! キバナさまだ!」

通りすがりのバトルコートにいた子ども達がキバナに気付き駆け寄る。その歩幅の狭さがあまりに可愛くて、笑みが零れた。

「いつもの服じゃない!」
「なんでぇ?」
「今日はお休みの日なの?」
「そ、お休みの日」
「だったら彼女とデートの日だ! かっこいい格好してるもん」

一人ませた事を言う子に、キバナは瞳を丸くした。鋭い観察力、これは将来良いポケモントレーナーになるな。

「ふふ、今日のオレ様、かっこういいか?」
「かっこいー!」
「キバナさまはいつもかっこいいよ!」
「今日はとびっきりだけど!」

とびっきりとは、嬉しい事を言ってくれるじゃないか。無垢で素直な言葉が心の傷口に沁み、思わず泣きそうになった。
しゃがみ込み目線を合わせる。子どもの瞳は、どうしてこうもキラキラと宝石のように煌めき綺麗なのか。自分にもこんなに瞳を輝かせていた頃があったんだろうなぁ。大人になると打算無しでは生きていけない息苦しさが、瞳を濁らせてしまう。

「ありがとうな、オレ様、頑張るよ」
「もしかしてプロポーズってやつ…?!」
「頑張って!」
「がんばれっ!」

向けられるのはあまりにも素直な優しさ。この子達のように、素直な言葉で、ごめんなさいも、ありがとうも言えたなら。

ダンデに頼み込みソニアから聞き出して貰った情報によると、の今日のシフトはそろそろ終わる頃合い。また裏口で待ち伏せをする事にはなってしまうが、その上裏路地に今日の格好はあまりにも違和感しかない。場所もシチュエーションにも拘りたいところではあるが、背に腹は代えられない。
雲の流れが速いな、と思ったらポツポツと降り出した雨。なあにこれしきの雨、水も滴るなんとやら。前々からキバナは、カブからホウエン地方のことわざや文化を聞くのが好きだったが、と付き合いだしてからより一層、勉強好きも功を奏し今となってはマイブームだ。多少濡れるこの程度の雨はガラルではよくある事で、地元の人間には傘をさすという習慣がない。それ程にガラルで降る雨は大した事じゃあないということ。長引いても小雨が続くだけ、運が良ければすぐあがる。そう、いつも、なら。
途端に、バケツをひっくり返したかのような土砂降り。天候の変化が激しいワイルドエリアじゃあるまいし、これ程までの雨はなかなか珍しい。広場にいた人達が慌てて近くのお店や軒先に避難する中、キバナだけが微動だにせず立ち尽くしていた。あまりの豪雨に視界も悪く、まさかずぶ濡れになったまま動けずにいるのがキバナだなんて、誰も思わないだろう。
目を瞑り深く吸った息を改めて吐き出す。大雨?嘘だろ?オレ様ずぶ濡れになっていないか?子ども達がかっこいいと褒めてくれたさっきのオレ様は、どうなってる?そうしている間に、ザーザー降りが落ち着きはじめる。この間たったの数秒だ。たったの数秒で、髪は乱れ、全身ずぶ濡れ、重たい雨粒を受けた薔薇は少しくたりとしている。

「うそだろ、まじ、か…」

鏡がなくたって分かるさ、全身ずぶ濡れだ。間違いなく。これじゃあもう、に会えるわけがない。こんな情けない姿を、見せられるわけが、

「キ、バナ?」
「…、」

目蓋をあげた目前には、小花柄の傘をさしたがいた。
ガラルでは雨の日に傘をさす人は珍しい。さしているのは大抵、他地方出身者だ。小花柄の傘を初めて見かけたのは、曇天で薄暗く、けれどパラパラと絶対に傘をさすには足らない、いつもの程度の雨の日。可愛らしい傘だと思ったし、ナックルの街並みに普段見ない傘は新鮮で、キバナはその日の事をはっきりと覚えていた。雨の日になると、たまにその傘を見かけるものだから旅行者じゃなかったのかと、つい足をとめて遠くなっていく後ろ姿を眺めたりした日もあった。その傘の持ち主がだと知ったのは、ルリナにを紹介して貰って暫くしてからだった。勝手に運命だと思っていたなんて、恥ずかしくてには言わなかったが、ダンデやネズには言ったかもしれない。

「どう、したの、ずぶ濡れで」

かっちりとした高そうなスーツと手元には薔薇の花束を持ったまま、それを雨にうたれて台無しにしている姿を目の当たりにしても放っておけるわけもなく、かと言ってなんて声をかけたらいいのやらで戸惑いを隠せないでいる。

大切な日にこんなにも上手くいかない事があって許されるのか。そもそもなんで喧嘩したんだったか。キバナは苛立ちを感じながらも思考を巡らせる。そうだ、が知らない男と歩いていて、随分と親しげで、そいつは誰なんだって思っても本人に問いただすもできず勝手に怒って八つ当たりをして。つい喧嘩越しになったのが原因だった。ただそれだけの、些細な事が切欠だった。それなのに、咄嗟に口から出た売り言葉がの心を傷つけ、キバナの中ではそれだけだったはずが、それだけじゃあ済まなくさせてしまったのだ。

「だってはっ!!」

急にあがった大声に、通りすがりの人も足をとめて注目する。遠巻きに、キバナじゃない?キバナだ、とぽつぽつ聞こえる声にはまずい、と思うがキバナは周囲など見えていないのか、構わず言葉を続ける。

は、…っ、オレがジムリーダーだから付き合ってくれたわけじゃないだろ! ブランド物の貢ぎ物でも、それこそインフルエンサーのオレが目当てなわけじゃないだろ?!」

人の目など気にせず子供の癇癪のように騒ぎ立て喚き散らかす。スマートに決めようと思っていたのに、格好つけようと思っていたのに、台無しだ。
何を、当たり前の事を言っているのか。は間髪入れず言おうとして、やめた。喧嘩をした時とは違う、必死な表情で声を荒げる苦しそうなキバナの姿に、声が出なかった。

「オレの容姿がどうだとか、金持ってるとか、そんなの目もくれないじゃないか」

キバナは少し俯いて頭を抱える。長身のキバナが俯いた所で、キバナよりずっと背の低いには彼の表情がはっきりと見えて分かる。の前ではいつも格好をつけたがるキバナが、今にも泣き出しそう。一般人よりは勝る財力や、立場や、目に見える容姿を重視されているわけでもないなら、他の男よりも劣らないように、が離れていかないように、一体何をどう努力すればいいのか。

「どうしたら離れていかないかって、繋ぎ止めておくのに必死すぎて、オレ…」

雨はすっかりやんでいて、雲の隙間から太陽の光が差し込む。はさしていた傘をそっと閉じた。

「そのままで、いいよ」

言い、キバナを見つめるは穏やかな顔をしていた。そんなの顔を随分久しぶりに見たような気がして、キバナは目頭を滲ませる。

「そのままのキバナでいてくれたら、それでいいの」

だって貴方は、そのままの貴方でいるだけで、十二分に素敵な人だ。ジムリーダーの仕事に真面目なところも、ダンデとの戦いに妥協をしないところも、日々のトレーニングだって一日も欠かさないところも、ポケモンに対してだって実直で、何事においても真摯なところも、好きで、分かっていたのはまだキバナの一部分だったのかもしれない。

「そんな風に思ってるなんて、知らなかった」
「今度からは、ちゃんと言うよ」

きっとそれは、お互い様か。

「オレも、のこと知った気になって、何も知らなかったんだよな。だからのこと、もっと知りたい、もっと、たくさん、教えてほしい」

跪き、途中で強く握っていたため余計クタクタになった薔薇を、の前に差し出す。

「オレと、もう一度、お付き合いしてください」

あぁ、本当、こんなにも格好のつかない告白なんてあっていいのだろうか。だがこれが、今のキバナだ。今のキバナの、精一杯だ。
は半歩だけキバナに近づくと、鞄から取り出したハンカチで、キバナの高い鼻先からぽたりと落ちそうな雫を拭う。そうして、困ったように眉を顰め、けれども嬉しそうに微笑むものだからキバナの心臓は、ぎゅっと締め付けられる。

「はい」

が言うや否や、キバナはの膝裏に両腕を回し勢いよく立ち上がった。

「っ、ちょ、きゃあ?!」

の手から放り出された傘がぱしゃりと音を立て、キバナの手から滑り落ちた花束から舞った花弁が、水溜まりの上で揺れる。
何するの、急に危ないでしょ、そう怒ってやろうと、思っていたのに。

「もう離さない、絶対に」

噛み締めるように呟きを強く抱き締めるものだから、これは惚れた弱みというやつなのか。はすっかり絆されてしまって、キバナの頭を抱くと、濡れた髪に頬をすり寄せた。

「ふふ、どうだかなぁ」
「絶対! ぜっっったいに! 離さねぇからな!!」