nu、OMCファンならその存在を知らないものはいないだろう。いたとしたらそれはアンチだ。強さではあのキング・カズマと対等ではないかと噂されるほどの実力で、ハイセンスな格闘スタイルは観客を魅了して止まないことから話題のアバターである。知られている限りでは全戦全勝、戦い振りは負け知らず。
人型であるそのアバターは狐の面を被り男性用の中国服を纏っていることと、格闘スポーツという偏見からだろう、プレイヤーはやはり男ではないかと言われているが真相は誰も知らない。というのも、まるで気分屋のように極稀に突如現れるのがnuの大きな特徴なのだ。ログイン時間は真昼間のこともあれば真夜中だったりと疎らで、割り出すことすら困難。
多くの会社からスポンサーの話がきても全てを断り続けているらしく、そんなおいしい話を断るだなんて、ということで実を言うと変わり者としても有名であるのだが。上記のこともあり彼なのか、彼女なのか、日本人なのか、外国人なのか、それはプレイヤー本人の知り合いでもなければ知る由もない、ということだ。せめてログイン時間に大きな変動がなければ、社会人なのか学生なのかの判別くらいはつくのだろうに。しかしログイン時間に関しては日本の時間の場合、を前提にしなければならない。故に様々な憶測が飛び交う。むしろ飛び交わざるを得ないといった方が正しいのかもしれない。
とにかく、謎めいた存在なのである。
謎めいているからこそ、人は惹かれ興味を抱くのだろう。
まだあなたを知らない
「久しぶり」
頭の上から降ってきた声に反応し、佳主馬は項垂れていた顔を上げ視線を声の主に向けた。陣内家はあまりに敷地が広すぎる、大げさすぎるかもしれないが玄関に辿り着くまでにどれほどの距離を歩いたことか。ましてじわりと額に滲み出る汗を感じるほどのこの真夏の暑さに、嫌気をささないわけがない。
玄関先で佳主馬を出迎えてくれたのはいとこのだった。出迎え、というのは正直に言うと誤り。お互いは携帯のメールアドレスすら知らない仲で、今着く、などといった連絡のやり取りなどあり得ない。がたまたま通りかかると、たまたま佳主馬が陣内家に到着したところだった、というだけだ。
「久しぶり」
の格好は上がTシャツで下は高校のジャージだろう、腰の辺りに名前が刺繍されている。佳主馬はそういえば去年もこんな格好してなかったっけ、と思いながらまくりあげられて露となっている白く細い足首を視界に入れた。
ろくな挨拶もしていないが挨拶も程々に着替えやノートパソコンの入った鞄を持ち上げるとの隣をするりと抜け、いつも閉じこもる納戸へ向かう前にリビングを目指す。リビングには身体を預けるにはもってこいのソファがある、煩いちびっ子たちもまだ来ていないようだし、誰にも邪魔されず休むことができる。
はそんな佳主馬の後ろ姿を暫くじっと見つめていた。
荷物をソファの脇に置きボスンッと勢い良くソファへ身を委ね大きく息を吐く、それはどこか溜息にも似ていた。暑い、これほどやる気を削がれるほどの暑さなんて今まで一度も体験したことがない。入り込む風の涼しさが心地よくて佳主馬は自然とその瞼を閉じる、別に眠る気はない、これから集中してやらなければならないことがあるのだ。
コトン、という音に瞼を開けるといつの間にかすぐ傍にがいた。佳主馬はにとっても祖父である万助から少林寺拳法を教わっている、だから人の気配には多少敏感で気付かないはずがないのだが。の動きはとてもゆったりしていて、どちらかというとドタバタと動き回る夏希とは違い、足音はほぼさせない。無音といってもいいくらい、きっと体重の軽さも関係しているのだろう。そのせいで佳主馬は顔には出さないものの、ドキリとさせられることが度々あった。
「麦茶」
音を立てて置かれたのは氷の入った麦茶で、冷え切ったグラスの側面を水分が覆い尽くしていた。の指先に溜まった水分が重さに耐え切れず、ぽたりとテーブルの上に落ちる。
「ありがと」
交代するように佳主馬はグラスを持ち上げ縁に唇を押し当てた、冷たい。麦茶を流し込むと喉が潤っていくのが分かった。 はコースターを置くと、もう1つトレーの上にのったグラスを持って隣り合わせになっているダイニングの椅子に腰をおろす。佳主馬が来るまではそこが特等席だったのだろう、テーブルの上に置かれた小説を手にとると背もたれにもたれ掛かって小説に目を通しはじめた。の集中力は相当なもので、文字を追う目の動きもページを捲る速度も普通の人よりも速い。そしてストーリーに夢中になるがあまり氷は暑さでどんどん溶けていき、麦茶がどんどん薄くなっていく。は薄くなった麦茶だろうとオレンジジュースだろうと、冷めたコーヒーだろうと紅茶だろうと平気で飲む。 まぁ放っておいたのは自分なのだから自業自得といえばそうなのだが、不味いという概念がないのだろうかと思ったことがあったことを佳主馬は思い出す。なんの小説なのかは買った書店のカバーがかけられていて分からなかったが、あまり興味もなかった。
佳主馬は数ヶ月前にや夏希と同じ高校3年生である山之手真紀という女の子と知り合った。真紀と出会うまでは高校3年生はきっと大人なんだと思っていた佳主馬だったが、実際はそうでもない事実を身をもって知った。そういえば再従兄弟の夏希は確かに自分より年を重ねているという分には大人だとは思うが、落ち着きがない様子などからして佳主馬が想像する大人とは違っている気がした。以上を踏まえてを盗み見る。はいつも落ち着いていて、兄である翔太と兄妹だなんて到底思えないほど大人びている。大人びているのか、冷めているだけなのか親しくしていない佳主馬には判断できかねたが、真紀や夏希とは違うということははっきりしていた。
残りのページ数も少なかったのだろう、小説を読み終えたが静かに閉じるとようやく佳主馬に気付き二人の視線がぶつかり合う。
「なに?」
の奥の物でも見ていたふりをすればよかったが、視線が合ったことであからさまに固まってしまい、それだけでにも佳主馬が自分を見ていたことが分かってしまった。特に気にした様子もなく、ただ聞いただけのようでも興味はなさそう。
「…別に」
素っ気無く答えるとその態度に不満を見せるということもなく、そう、とようやくグラスに口をつけた。クラスの女子だったらこうはいかないな、と内心で呟く。
タイミングよくどこからともなく着メロらしいメロディが流れだし、は誘われるように立ち上がる。ダイニングから姿を消し、リビングには佳主馬一人きり。大方母親か父親に呼ばれたのだろう、暫くするとママチャリに乗ったが門に向かっていく姿を視界に捉えた。
まるで考え込むようにそこにいた佳主馬だったが、グラスを片手に空いている手には鞄を持たせると納戸へ足を踏み入れた。
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