朝のルーティンなんてみんな決まっているようなものだろう。わたしの朝はまずランニングから始まる。あぁその前に歯磨き、歯磨きをしてさっと顔を洗ってからまずランニング。大振りの雨の日は流石に出ないけれど、小雨なら濡れるのもお構いなしに走ることもある。そういう時は、まぁ気持ちがむしゃくしゃしてる時だ。ランニングを始めたのは、カントーからガラルに引っ越してきてすぐ、ワイルドエリアに通うためが理由。就職先をガラルに決めたのも、昔ワイルドエリアの特集雑誌を読んで惚れ込んだのが切欠だ。本当はワイルドエリアを覗ける部屋を借りたかったけれど、高すぎて仮に無理をして頑張ったとしても絶対にどうにもならない金額だった。そりゃあそうだ、平の会社員の給料なんてたかが知れている。
ある程度の体力と、少ない手持ちのポケモン。とりあえず現状はどうにか間に合っているけれど、日中だけじゃあなくて、夜のワイルドエリアも良いなぁなんて欲が最近は出てきてしまって困っている。夜のワイルドエリアでそのまま朝を迎えてみたい。昼間でも危険は伴うのに夜なんて、恐れ多くて、でもいつか行ってみたい、わたしがガラルにいる間には叶えたいと思っている。
好きな音楽を聴きながら、朝日の昇る瞬間のナックルシティを回るのは悪くない。昼間は人で賑わい活気あるナックルシティの穏やかな静けさは、わたしの心を落ち着かせてくれる。
ランニングの後はシャワーを浴びて、自分よりも手持ちの子の朝食を準備、それから自分の朝食。身支度を済ませたら出勤だ。仕事の日の朝なんてこんなものだろう、味気なく面白味のない朝だ。唯一、ランニングの時間は特別かもしれない。
変動のない毎日、同じような日々を毎日過ごしてる。これがいつまで続くんだろうなんて、わたしはシンデレラじゃあないんだから死ぬまで続くに決まっている。会社までの道のりに、特別な事がある日なんてないし、いつも同じ人とすれ違って、同じ風景をみて、同じ道を歩いて行く。今日はこっちから行ってみよう、なんて思わない。遅刻する。生活していくために仕事をしてお給料を貰う、たまに贅沢して好きな事をやって、好きな物を買って、それが毎日続く。それだけだ。

「おはようございます」

振り返ってわたしに挨拶を返してくれようとした先輩が言葉に詰まる。

ちゃん…か、髪…どうしたの…!」
「ばっさり切っちゃいました、変ですか?」
「変な事はないけれど」

あんなにケア、頑張っていたのに、と嘆いてくれる優しい先輩。それだけで嬉しい、心が救われる。
キバナさんと話題になる女性はいつもロングヘアでゆるふわパーマの美人のお姉さん、綺麗なロングストレートヘアの美人のお姉さん。美人でもないし、どこにでもいそうな庶民顔のわたしだけれど、外見で変えれる範囲のことならばと、遠い存在で手が届くわけでもないのに、髪を伸ばして明るい髪色にして、綺麗めの洋服を選んで着て、つまりは無理をしていたのだ。合いもしないし自分の好みでもないのに、背伸びをしていたのだ。

「髪色も思い切ったわね」
「実はグレー系気になってて、試してみたら案外いいんじゃないかなって」
「勿論、とても似合ってる」

ちゃん可愛いからなんでも似合うわぁ、とべた褒めしてくれる先輩はなんとなく経緯を察してくれているようで、深くは追求しないでくれた。職場でキバナさんファンを公言していなくて良かったと、心底思う。

ことの成り行きはこうだ。

毎年行われるガラルが誇るチャンピオン、ダンデさんのバースデイパーティー。当然至極、一般人が安易に参加できるものでは決してなく、運営側の完全招待制。フリマアプリやオークションに出品でもされた日にはどうなるか、その先の事はあまりに恐ろしくて口にできない。
まぁそれがなんやかんやで、我が出版社に出席権がなんと2名分与えられた!しかも社長が折角の機会なのだからと、外仕事の多い営業や取材班と違い、ディスプレイに一日中かじりついての作業に追われている我ら制作部でと、譲ってくださったのだ!そんな気を回してくださる社長、どこの会社にもいない…わたし絶対辞めません…ここに埋骨する覚悟であります…あ、でもそのうちカントーに戻るかもしれない…ごめんなさい…
ここで問題になったのは誰が行くか。席は二枠、戦争だ。しかし一つは編集長が当たり前のように掻っ攫って行った。仕方ないとは思いつつも、最近娘さんが思春期で素っ気ないと話していたのを忘れてはいない。物で釣ろうにも、娘さんが欲しがるコスメも服もブランドもので高すぎると嘆いてもいたなぁ。いつもなら君たちでどうぞ、と言ってくれる編集長が、これは間違いなく娘さんとのコミュニケーション不足を解消するための切欠作りと、父親としての存在感爆上げのためだ。わたしも一人の父親の娘なので娘さんの気持ちが分かるし、成人してアパートを借り安月給でやりくりしをしている大人なので親の気持ちも分かる。独身だけれど。お金を稼ぐのって大変。お金の価値も物の価値も分からずに、あれ欲しいこれ欲しいと強請っていた子供の頃のわたしを、タイムマシンがあるならすぐさま戻って殴ってやりたい。
その日は彼氏とデートだって言ってたじゃないかとか、締切日だけどどうしても行きたいだとか、仕事そっちのけで年甲斐もなくみんなの声が大きくなる。そりゃあそうだ、観戦チケットだって異常な倍率でわたしの乏しい人生全ての運を使い果たしたとしても当たる気がしない、絶望的だ。生で、しかもスタジアムの観客席なんて距離じゃなくダンデさんを見られるなんて。仕事も忘れ、我も忘れもする。しかしどう喚こうが騒ごうが残りの席は一枠。これ以上減りもしなければ増えもしない。

「ここは公平に、じゃんけんにしたら?」

なら貴方がたった今、掻っ攫ったそれも、公平にじゃんけん枠にして下さい、と誰もが思ったが口にはしなかった。これが大人か、これが空気を読むということか。
予定がある人もない人も、行きたい気持ちがある人は全員、負けても絶対に文句はなしの最初はグー!で、まさかまさかの勝ち残り、わたしは出席権を獲得したのだ。あのダンデさんのバースデイパーティー、きっと、キバナさんやルリナさんたちジムリーダーも出席するに決まっている。わたしは淡い気持ちを抱いた。もしかして、なんてそのくらいダンデさんやキバナさんのファンなら誰しも憧れるシチュエーション。芸能人とは違う、近いのに遠い存在。出会えそうで出会えない、だから余計に憧れを捨てきれないのかもしれない。これが女の子ならまだしも成人済みのわたしが思っていることがバレでもしたら、絶対に引かれそう。
今回一度着たらクローゼットの肥やしになるんじゃないかと思うパーティードレスを奮発して、当日は休みを頂いて。事前に予約したヘアサロンで髪をセットして、メイクもばっちりに決めて貰う。普段滅多にネイルもしないわたしが、指先にキラキラのストーンをのせる日がくるなんて、故郷の母親にしられでもしたら大笑いされそう。
やっぱり女性は服装や髪型で雰囲気が変わるねぇ、と編集長の褒め言葉がむずがゆい。基本的に人が良いので悪い人ではないのだけれど、チケットの一枠分については、みんな根に持っていそうなのがかわいそう。いつもより盛れてる?ということだろうか、キバナさんの視界に入れて貰えそうかな、少し話ができるだけで、それだけで。

なーんて、とてもとても甘い考えでした。すみません。ジムリの皆さんどころか、メインのダンデさんとも全く一言も話せていない。挨拶も出来ずにアルコールを喉に流し込む手ばかりが些細な障害もなく順調にすすんだ。大企業の名を出されては、中小企業は肩身が狭くてなりません。会社の代表として参加したにも関わらず、わたしはもしかして、なんて子供みたいなことを考えてドレス選びに真剣になって、ヘアサロンまで予約して、情けない。

「編集長、ダンデさんに近づく隙が全くありませんが」

どうしますかと尋ねると、そうだねぇ、と困ったように笑う。この人がこうやって笑う時は、大抵まだ諦めていない時だ。

「もう少し頑張ってみるよ、名刺くらい渡せないとね」
「そうですよね、名刺くらい渡せないと…」
「君は先に帰ってもいいんだよ」
「えっ、そんな訳にはいきませんよ、皆さんに怒られます」

無収穫で遠くからダンデさんやキバナさんを眺めるだけ眺め、何も出来ずに帰ったなんて知られたら、サンドバックにでもされてしまう。

「けれど少し酔いを覚ましたいので、バルコニーにいますね」
「はい、気をつけてね」

滅多にあり得ないチャンス、どの会社も逃したくなくて躍起になっているのが分かる。しかしこれはバースデイパーティーというより、ただの大規模な飲み会のようで少しダンデさんを憐れんでしまう。きっと、故郷に帰って家族と過ごしたいに決まっている。初めて会うおじさんたちに次から次へと仕事の話をされて、折角の日が台無しだ。それがチャンピオンの役割、なのだろうか。なんだか虚しい。
テラスには誰もいなくて、ようやく一人になれた事で緊張の糸が解けた。あんなに楽しみにしていたのに、こんなにも疲れ切っている自分に、何がしたかったのか問いかける。何がしたかったのかって、仕事だぞ。
イスがあってよかった、慣れない細く高いヒールの靴なんて履いたものだから、踵を擦りむいてしまっていた。これは確実に水膨れになる。本当、情けない。靴から踵だけ脱がし、ふらふらと揺らしてみる。痛いのが少しでも良くなるように、単なる気休め。テーブルに頬杖をついて、息をはきながら瞼を閉じると、遠くから微かに聞こえるホーホーの鳴き声。とても穏やかで、気持ちが落ち着く。耳を澄ませればよりはっきりと捉えられて、思わずふふ、と笑みがこぼれる。遠いと思ったけれど、案外近くなのかもしれない。
やっぱり夜の撮影もしてみたい、けれどワイルドエリアでの夜は怖いし危ない。昼間と勝手も違うし景色も印象もかわる。だからこそ臨みたいのだれけど、そのためには自分の手持ちをまず増やして対策を練らないと。遭難してとか、他人様に迷惑はかけられない。朝方なら、まだ今の手持ちの子だけでもいけるだろうか?うーん。

「なぁってば!」

どかっと向かいのイスに誰かが座り、驚きで心臓が跳ね上がる。びっくりした!人の気配に気づかなかった自分も情けないけれど。今日は情けないことばかりだ。危機管理に欠けていると言われてしまえばそうなのだが、考え事をしている人なんて、大抵こんなものじゃあないか?
さっきまでのわたしと同じように頬杖をついた彼が誰なのか、視界が捉えて認識した途端、追い討ちをかけるように声がでない。わたしははくはくと餌を強請る魚かよ。いやいや、元々声帯は母体に忘れてきていたかもしれない。きっとそうだ。驚かせた、ごめんねとヌメラ顔でキバナさんが笑う。SNSで有名なやつだ…

「何度か声かけたんだけれど」
「あ、の、っごめんなさい、気付かなかったです…」
「この距離で、そんなことある?」
「ホーホーの鳴き声が、聞こえて」

その鳴き声に耳を澄ませていたと伝えると、キバナさんは一瞬間をおいて、ふっと笑った。ひえ…男前…
絞り出したわたしの声は尋常じゃないほど震えている。会社の面接の時だって、大して緊張しなかった覚えがある。こんなにも人の声って緊張で震えるんだと、気付かされたら恥ずかしくて顔をあげられない。ねぇ、と声をかけられ、浅く呼吸を繰り返してようやくゆっくりと、なんとか僅かに顔をあげる。ちらりと一瞬盗み見るように視線を向けてみたが、直視は難しくてキバナさんの手元におさまる。

「もしかして、オレさまのこと、好き?」

人気のある人だもの、モテる人だもの、有名人だもの。自分に対する人からの好意なんて、すぐに分かってしまうんだろう。特にわたしなんかは、分かりやすすぎでしょうね。
はい、と言ったところでなにがどうなる?いざとなれば、夢見がちな少女のようにはなりきれず、現実主義なわたしが横槍を入れる。

「連絡先交換しよう」
「…え、」
「嫌?」
「いえ、そんな…」

ならほら、とスマホを手にするキバナさんに釣られて、今日のために買い揃えたクラッチバッグから自分のスマホを恐る恐る取り出す。何が起きているんだろう?よく分からない、分からな過ぎてキバナさんの手、やっぱり大きいなぁなんてのんきに考えていた。わたしのスマホと同じくらいのサイズのそれが、全然違うものに見える。キバナさんの背の高さから見た世界って、どんな風に見えるんだろう。見てみたいなぁ。
崩れた髪を掬いあげられ、慣れた手つきで耳にかける。はっとして見上げるとばちりと目が合い、耳に触れたキバナさんの指先が、そのままわたしの頬を撫でた。

「かわいいね」

あぁ、これは、モテるに決まっている。モテまくるに決まっている。選び放題に決まっている。

「あの、キバナ、さん」
「キバナでいいよ、彼女なんだから」
「かの、じょ…」

待って、いつの間に彼女になったの?え、…え?

「キバナ! ここにいたのか」

思考停止寸前のわたしを現実に引き戻してくれたのはダンデさんの声だった。そうだ、今日はダンデさんのバースデイパーティーに参加していたのだった。

「邪魔したか?」
「まぁね」
「あっ、ダンデさん、っ」

慌てて立ちあがったものだから、踵の痛みによろけてしまったわたしを、ダンデさんが片腕で易々と支える。大きい手、逞しい腕、ガラルのチャンピオン、すっごい。それ以上思考が回らない。

「申し訳ございません」
「いや、大丈夫かい? 足、痛めているんだろう?」

観察眼は伊達じゃない、すっっごい。

「大丈夫です、お気遣いくださりありがとうございます」

このバルコニーにわたしとキバナさんとダンデさんの三人しかいないとか、本気かな?正気かな?バグだなきっと?今が人生ピーク間違いなし、全ての運を使い果たした。観戦チケット当たる方がまだ少ない運でいけた気がする。

「この度はお招き頂きありがとうございます」

お誕生日おめでとうございます、と伝えると、ありがとう、と微笑むダンデさんはとても気恥ずかしそう。自分も、もう子供でもないしと思うと盛大に誕生日を祝われる気恥ずかしさは、わからないでもない気がした。祝われたことないから、実際の気持ちは分かりかねるけれども。
握っていたスマホをしまい、いそいそと名刺を差し出す。

「ご挨拶遅れ申し訳ございません。カナリア出版、制作部のと申します」
「先程編集長さんにお会いしたよ、制作部の方の出席とは珍しいな」
「珍しいがてら記憶に留めて頂けましたら幸いです、と言いましてもお仕事をご一緒させて頂く事は難しいと思いますが」

取材班ならまだしも制作部だ、自伝でも出すというならデザインの打ち合わせくらいするがまさかうちのような中小企業でダンデさんが本を出すとは到底考えられない。もし出したとしても大手にとられて終わりだ。

「ダンデ、オレさまに用事でも?」
「あぁ」
「では、わたしはこれで失礼致します」

制作部は普段取引先とも直接やり取りをしない。担当営業が必ず間に入り指示を仰ぐ。そう、わたしは取引先対応経験値が全くのゼロという状態でこの場に足を踏み入れてしまったのだ。よくよく考えればあまりに敷居が高すぎた。言葉遣いは大丈夫だっただろうか、態度は?大丈夫だった?笑顔は引き攣っていなかっただろうかと反省点が次々と浮かんでくる。ドレス選びに執着している暇などなかった。営業の人たちにもっと聞くべきことがあっただろう。後悔しても今更遅い、もうここはさっと立ち去るのみ。出席者の人数を考えれば、ダンデさんもきっとすぐわたしのことなど忘れるだろう。

ちゃん」

思わず立ち止まり振り返ると、ひらひらと、キバナさんがわたしに手を振っていた。

「またあとでね」

あぁキバナさん、その顔でなんでも上手くいってきたんだろうなぁ。顔面600族は伊達じゃない。
わたしは申し訳程度に会釈を返して、そっとバルコニーの扉を閉じた。

以上がことの成り行きである。