実際のところどうなのかと聞かれたら、そんなにショックというわけでもないのが本音だ。そりゃあそうだ、キバナさんほどの人が平々凡々なわたしに好意を持つわけもない。同じジムリにはモデルのルリナさん、年齢は離れているとは言えメロンさんだって美人だし、サイトウさんもとても可愛い。自分から声をかけなくたって言い寄ってくる女の子たちは山程だろうなぁと思うと、目だって肥えているキバナさんのお眼鏡にかなうわけもない。あれは気紛れの遊びだったとはっきり言われた方が俄然納得もいく。けれどそこはガラル紳士、そんな事は一言も結局言ってこなかった。やっている事は紳士ではないけれども、それを愚痴れる相手もいやしない。
浮かれていたとはいえ付き合っていたという実感もないままのその期間一週間、ショックもなにもあるわけがない。遠い存在、テレビでインタビューを受けているキバナさんを見て思う。やっぱりこのファンの距離感がわたしには丁度いいのだ。恋愛は片思いの間が一番楽しい、なんて言うけれどそれに似ている。あとそうそう、女が結婚相手を選ぶなら、一番じゃなくて二番目に好きな男ってやつ。
「ちゃん、編集長が呼んでる」
ついさっきお客様が来たからと言っていたはずなのに、もう帰られたのか。立ち上がりながら編集長のデスクに視線を流したが、そこに編集長の姿はなかった。
「お客様もう帰られたんですね」
と言って先輩は、両手の人差し指で応接室に向かう廊下をさしてみせた。
応接室、お客様を迎える部屋、そのままの意味。お客様対応中なのになぜ?何かミスでもあったのか、トラブルがあった場合には事前に知らされるはずだし、深く考えたくもないけれど考えてしまう、性分なのだ。性分はさて置いておいて、今だけは考えても仕方ない、パソコンをログオフにして第一応接室に向かう。途中にある給湯室で鏡を覗き、ささっと前髪を整える。事前に分かっていたらもう少し化粧をちゃんとしてきたのに、悔やまれる。
二度ノックすると編集長の、どうぞ、という声。失礼致します、と扉をあけた先には編集長と、その奥に座っていたのはキバナさんだった。なんで?キバナさんも少し驚いた顔をしている。そりゃあそうだ、つい三日程前に振った女に早々出くわしたら驚くでしょう。
「キバナさんがね、君のファンなんだって」
編集長は嬉々としたトーンで話し出した。
ファン…?ふぁん…?なんのことやら。
「ほら、写真集」
「あぁ…」
わたしが一度だけ出したことのある、ポケモンたちの写真集。ガラルに来てからワイルドエリアで少しずつ、たまに撮影してはためていた写真データを昼休憩中に整理していた時のこと、隣の席の先輩がとても褒めてくださって、調子にのって出版にまで至った過去の産物。いや、遺物だろうか。といっても、部数はそんなに作らなかったし、普通の書店には置いてもらえなかった。無名の写真家、断られるには十分過ぎた。
ナックルシティにはとても古い古書店があって、どこのブティック店よりも一等わたしのお気に入りだったし、今でも勿論お気に入り。ナックルシティ全体が歴史的価値のある建造物の街であるけれど、その古書店一角だけはまた特別な雰囲気で包まれていて、わたしは足を運ぶたび少し重いあの扉を引くのが楽しみでならない。古書店なのは分かっているが置いてもらえないかと店主に自ら交渉しに行ったのを今でもはっきり覚えている。薄暗い店内、ランプの明かりを頼りに写真集に最後まで目を通した店主が、いいよ、と一言だけ。寡黙な人なのだ。
「って言ったんですか?!」
「えっ、ダメだった…?」
「ダメ、ですね…」
実名を伏せた意味とは。キバナさんがファンだって、つい…と言う編集長。その言い方キバナさんのせいにしていますからね、気付いてないかもしれないけれど、キバナさんのせいにしている言い方ですからね。
壁掛けの電話が鳴りだし、すかさず受話器をとる。
「編集長、急ぎ折り返し欲しい案件があるそうです」
「キバナさんがいらっしゃっているのに」
「大丈夫ですよ、お気になさらず」
そもそも、どうしてキバナさんがうちのような中小企業の出版社にいらっしゃったのか謎である。わたしがお暇した後のダンデさんのバースデイパーティーで、編集長とまさかの意気投合でもしたのだろうか。受話器を元に戻し一緒に応接室を出ようと思っていたわたしは、編集長から小声で「戻るまでキバナさんのお相手お願いしますね」と告げられる。全く準備の出来ていない声にならない抗議の声は遮られて、鼻先で扉がバタンと閉じた。嘘でしょ?振り返りたくないのに、
「座ったら?」
と催促される。誰にって、キバナさんしかいるまい。躊躇うわたしの心情などお構いなしに、じりじりと催促する視線があまりにも熱くて、痛くて、促されるまま座るしかできなかった。生きた心地がしないとはこのことか。
「髪切ったんだね」
「はい」
「色も、前は結構明るい色だったけれど」
「はい」
「オレのせい?」
そうです、と言わせたいのかな。そうなのかも。それでどうするんだろう、優越感にでも浸るのだろうか。キバナさんともあろうお方が、こんな平々凡々な庶民のたったその一言で優越感に浸るのか?まさかね。
「いいえ、似合ってないの分かっていましたから」
「そんな事なかったよ、似合ってた」
「お気遣いありがとうございます」
腐ってもガラル紳士、か。
「編集長さんが言ってた通り、あの写真集のファンでさ」
「またまた」
「本当だってば! 出版社がここだったのを思い出して試しに聞いてみたら、会社の子だって言うから」
「はぁ」
「単刀直入に言うと、オレの手持ちたちの写真を撮ってもらいたい」
内容は理解している、けれど処理速度が追いつかず流れのまま、はぁ、と相槌を打ってしまった。
ナンダッテ?
「このくらいでどう?」
「え、」
キバナさんのロトムに表示された数字に思わず目を見開く。ゼロが何個もついている。
「足りない?」
「たりな…?」
何を言っているのだ、この人は?
「じゃあこの倍は?」
「いや、いや、高すぎます」
「そしたらこの間くらい?」
「ちが、ちが、そうじゃなくて、最初の金額でも高すぎます。相場は分かりませんが」
「高すぎる分にはいいんじゃないの?」
「い、い…のかもしれませんが、わたしにはちょっと…」
もう一度言う、内容は理解しているけれど、頭の処理速度が追いつかない。追いつかせて貰えないままに次から次へと会話が続くものだから、いや、駄目だ。キバナさんのせいにしてはいけないか。
「とりあえず、引き受けてはくれるってことでいい?」
「よくないです、引き受けません」
「どうして? 気まずい?」
その時ようやくわたしはキバナさんと視線を合わせた。気まずい、そうかもしれない。そりゃあ多少はあるでしょ。
「でも仕事なら、割り切らないとさ」
仕事がバリバリ出来てしまう人に言われると、ただ痛い。心にグサリと刺さった。
「そう、ですよね…仕事なら、割り切らないと…」
気まずくても、やりたくなくても仕事だと言われたらやるしかないのが現実だ。嫌ですなんて、それこそ指名を貰えるくらいの売れっ子じゃない限り仕事は選べない。中小企業の平社員が、トップジムリのキバナさんの申し出断れるか?けれど待って、今回のこれとそれとは話が全くの別問題じゃない?そもそもわたしは制作部の人間だ。
「この件、仕事なら尚更お引き受けできません」
「は?」
「わたしプロじゃありませんし、あれはあくまで趣味ですから無理ですね、普通に荷が重いです」
写真は趣味の範囲。先輩は褒めてくださったけれど自分で分かっている、まぁアマチュアの中では良い方なんじゃない?と思われているということを。大丈夫、自惚れていない、わかっている。それでもいい、趣味だから。思ったように好きなように好きな子たちを撮る、撮りたい。文句なんて受け付けないし、評価だってされたいわけじゃあない。こんなに我儘な考え方で、到底プロには及ばないスキルで、撮影の仕事なんて引き受けられない。それこそ撮影班の方々に首を締められそうでこわい。
「お話しならうちの撮影班にお願いします」
「ちょ、」
「では、お役に立てず申し訳ございませんが、編集長が戻られるまでもう暫くお待ちください」
失礼致しましたと一礼して、そのままの勢いに任せ扉を閉めた。もしかしたら聞こえているかもしれないくらいのため息をはきながら、そそくさとその場を去る。写真集のファンだとか、どこまで本当なのだろう。分からない、けれど自分の言葉ではっきりお断りできて良かった。中途半端な仕事は引き受けられない、もう責任取れませんと言い逃れできる子供ではないから、仕事は選べないにしても安易に返事も出来かねる。
給湯室前にある自動販売機にスマホをかざし、ペットボトルのスポーツ飲料を購入する。好んで飲んでいるけれども、これのイメージCM、キバナさんなんだよねぇ。ついつい、キバナさんがCMしている商品には手が伸びてしまって困る。僅かに喉を潤して、再度、今度は小さく、ため息をはいた。
「…写真集のこと、どこで知ったんだろ」
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