昨日と同じ時間にセットしたアラームが鳴り、今日も朝を迎える。毎日変わらない朝。寝ている最中に世界が滅亡するか、至って良好な健康状態だと認識しているわたしの身体のどこかに、突発的な異変が生じて息の根がとまらない限りは、必ず決まった朝を迎える。同じ朝でもここからワイルドエリアが一望出来たら、それだけで特別に満ちた朝になるような気がするのに、と思いながら開けたカーテンの先に見える景色も、決して嫌いなわけではない。
ランニング用のトレーニングウェアに着替え、軽くストレッチをしてから玄関を出る。決まったランニングコース、同じ景色、変わらない日々が毎日続く方が、心を乱されないで穏やかに過ごせるから幸せなのかもしれない。
「あれ、ちゃん?」
名前を呼ばれ咄嗟に振り返った先にいたのは、トレーニングウェア姿のキバナさん。彼もランニングの最中だったようだ。SNSで毎朝ランニングをしていると見たことがある。けれど今まで一度だって、わたしのランニングコースで彼を見かけた事などなかった。なぜ?困惑が押し寄せる。
こちらの困惑など梅雨知らず、人並外れた長い脚をたった数歩動かしたと思ったらわたしの前に立ち塞がり、おはよ、と薄く笑う。まだ薄暗く空気が澄み切った薄明の時刻、まるでCMかドラマのワンシーン。何をしても様になる人だし、ただの挨拶が絵になる人だ。
「おはようございます、偶然、ですね」
「本当偶然、なんとなく今日はランニングコースを変えてみようと思ってさぁ」
「なぁ、あの件考え直してくれた?」
「まさか、変わりません」
「どうしたら考え直してくれる?」
「それはキバナさんご自身で考えないと意味がないのでは?」
まずい、少しキツく言ってしまったかもしれない。ちらっとキバナさんを覗き見上げる。ぶすっと、機嫌が悪そうなのが明らかに分かる表情ならまだいい、すん、と無表情でこれはわたし死亡のお知らせ確定だ。顔が良い人の無表情ほど、怖いものはない。怒らせたかもしれない。相手はトップジムリ、わたしのような庶民は簡単に抹消できるくらいの力を持ってる(いやいや)、そもそもカントーからガラルの入国跡すら消されるのでは(まさか)、カントーにいるわたしを知っている知人の記憶すらも操作されて亡き者にされてしまう(そんなことって)!
「わたしこっちですから!」
速度を上げアパートに向かう角を曲がる。大丈夫、足音は聞こえない。まぁそこまで執着に追いかけてくる理由もないでしょう。アパートの階段を駆け上がり自室に飛び込む。玄関先で乱暴に靴を脱ぎ捨てソファに一直線、倒れ込んだ。朝から、どっと疲れた。このまま布団に戻りたい気分。ここの所、キバナさんに振り回されている気がする。たまたま?気紛れ?一度振った相手だから、面白がっているのかな?メリットも何もないだろうしキバナさんがそんな意地の悪い事をするような人にも思えない、はぁ、分からない。なんだかんだ言っても、ファンだから、好きは好きだから緊張はするし、あぁ、良い匂いしてたなぁ…
「時間、やばっ」
少しのつもりが時間の経過は早く、慌ててトレーニングウェアを脱ぎ捨てながら浴室へ。ハプニングがあったからといって時間は待ってはくれない、遅刻する。手持ちの子たちも、朝ごはんを待ち兼ねてボールをカタカタと揺らしていた。
と、これが一週間ほど前の出来事だったのだが、その翌日、いつものコースの途中にある公園まで着くと、わたしに気がついたキバナさんがニコニコと手を振ってきた。なんで?それからランニングコースを把握されてしまったわたしは毎朝キバナさんと走る羽目になる。うん、もう一度言おう、なんで?
なんで?の疑問を解消出来ずに抱えたまま、他愛のない話をしながら走っている。驚くほど他愛のない話だ。新しくできたカフェが気になっているとか、あそこのランチが美味しかったとか、いまいちだったとか、この間は忙しすぎて昼食をとれなかったとか、行きつけのバーがあるんだけれどそこの酒が美味くてさぁ、とか。走っている途中たまに野生のポケモンを見つけて立ち止まってみたり。基本的にわたしは相槌を打っていて、キバナさんが一方的に話しているような状態だけれども、キバナさんの話は大体食事の話題が多い。ポケスタによく自ら作った料理の画像を上げたりもしているし、食には拘りがあるのかもしれない。容姿端麗、高身長で高収入、頭も良く聞いて驚く学歴に、料理も得意。性格だって女癖さえ目を瞑れば。
「昨日なにかあった?」
今日、会うなりの第一声がこれで、一瞬きょとんとしてしまった。
「走りにこなかったから」
少し伏せ目がちに言うキバナさんはしおらしくて、逆にわたしを申し訳ない気持ちにさせた。わたしが悪い事をしたわけでもないのに、こんな気持ちにさせられるのはこれで二度目か。この顔に、きっと皆弱いんだろうなぁ。弱くない人がいるなら、是非心得を伝授して欲しい。
「昨日は、一昨日が雑誌の仕上げ日で夕方出勤だったんです、帰りが遅くなってしまって流石に朝起きれませんでした」
基本的に夕方出勤で遅くなった翌日は希望者に限り代休扱いにして貰えるから、対応には助かっている。代休扱いなので休日に出勤せざるを得ないのは少し面倒だったりするけれど、十分な睡眠をとれないままの出勤よりずっといい。それに、他に誰もいない職場は案外気楽で楽しい。
「え、出版社の制作部ってそんなハードなの?」
「忙しい時はそんな日もありますね」
なんでも予定通りというわけにはいかない。それが理想だし確かにベストではあるけれど、トラブルだってあれば人間なのでミスもする。お互いに補いつつ、持ちつ持たれつで円滑に関係を築けるなら尚のこと良し、だけれど人間関係の構築は複雑怪奇。同じ言語を話しているはずなのに、会話のキャッチボールが出来ない人がいるのは何故なのだろう。言語は分からなくても、ポケモンの方がまだ分かり合える気がする。
「徒歩出勤だよな」
「え、はい」
「手持ちに飛行タイプは」
「いません」
「夜道一人で歩いて帰ってるんだ?」
「そうです、ね?」
そこまで言われれば何を言わんとしているのか分からないほど鈍くはないし、悲しいかな、ある程度察しが良くなければ社会では生きていけないのだ。
「なるほど、危ないだろって言いたいんですね」
「当たり前だろ」
「話蒸し返して申し訳ないんですけれど、キバナさんが女性とキスしてる所を目撃した日も夕方出勤の仕事終わりだったんですよねぇ」
あ、キバナさんの表情が死んだ。おかしくてつい笑ってしまったわたしに、キバナさんが小さな声で、おい、笑いすぎ、とごちる。
「すみません、思い出したから言っただけで、なんとも思ってませんから」
朝日がもうすぐ完全に昇り切る。眩しさでわたしは目を細めた。
「同じ方向に帰る会社の人いませんし、わたし職場以外ではガラルに知り合いもいないので」
「あ、やっぱり他地方出身者? 会釈が気になってた」
「はい、カントーです」
「どうして、ガラルに?」
「学生の頃に読んだ雑誌に載っていたワイルドエリアに、一目惚れして」
咄嗟に出た言葉だったけれど間違いなかった。そう、そうだ、一目惚れ。心を奪われた、虜にされた。朝露で輝く鬱蒼とした深い緑、目を凝らせば底まで見えてしまいそうなほど透き通った湖、太陽の光で煌く砂漠はまるで黄金の絨毯。人の感情のように急で、代わる代わるの天候が見せるワイルドエリアに、わたしは一目惚れをして、それからずっとその熱の冷まし方を分からないでいる。
「なぁ、時間まだ大丈夫か?」
急に足を止めたキバナさんが踵を返そうとしていた。
「少しなら、大丈夫ですけれど」
「宝物庫寄って行こうぜ」
急にどうして宝物庫?歩き出すキバナさんの背中を慌てて追いかける。
「で、でもわたし、部外者ですし」
「大丈夫、オレさまが一緒だから」
「けれど、」
「今日は朝から施設のメンテナンスで調査が入るから、もう誰かいるはずだ」
「もう?!」
「今日だけな」
なぜと問いかけようとしていたはずなのに、あれよあれよと話の展開に流される。朝日が昇りきったばかりの時間に、もうスタッフが出勤している事実に驚き思わず腕時計を確認してしまった。遅い時間に帰宅する事はあっても、早い時間に出勤になる事はないのでわたしは頭があがらない。
宝物庫の重厚感のある扉を、キバナさんは易々と片手で押し開ける。あの細い腕で支えられるくらいだ、案外重くないのかもしれない。
「おはよう」
「キバナ様、おはようございます」
「少しだけ登ってもいいか?」
「はい、問題ありませんが」
「ほら、入りなよ」
流されるままついて来たせいで、目前で躊躇いがでる。だって簡単に入れる場所じゃない、簡単に許可が貰える場所じゃない。あの、と歯切れの悪いわたしの心情を察したのか、早くしないと遅刻するぞ、と意地の悪い笑顔でキバナさんがニヤリと笑う。えぇいままよ!誘導されるがまま、わたしは宝物庫に足を踏み入れた。
当然カウンターにいたジムスタッフの女性は、わたしを見るなり驚いた表情。そりゃあそうだ、忙しい日の朝一にキバナさんが、仮にわたしなんかだとしても女だ、それを連れて来たなんて驚き以外ないでしょう。申し訳なさでさらに頭があがらない。
「おはようございます、すみません、お忙しいのに」
「い、いいえ、大丈夫ですよ」
「朝早くからお疲れ様です」
そのくらいしかかける言葉が見つからなくて、軽く会釈すると目を丸くされてしまった。カントー地方では当たり前のお辞儀も、ガラル地方では不可解な動作の一つらしい。ホウエン地方出身のカブさんのおかげで、浸透はしているもののやっぱり実際お辞儀をすると驚かれるし、直そうと思っても癖のようなものだ。直せそうにもないので諦めている。
眼鏡越しといえど、彼女の瞳が大きいのは一目瞭然。元から大きな瞳がさらに大きく、今にも溢れ落ちそう。溢れ落ちそう、受け止めないとと思っていた瞳が、ふっと緩み優しく微笑まれる。
「ごゆっくりどうぞ」
優しい。わたしの申し訳ない気持ちが、少し和らぐ。
「こっち」
キバナさんの先導で階段を登る。外に出て、更に登った所から広がる景色に思わず、建物の縁に駆け寄った。ワイルドエリアが覗ける。
「この先は何も無いし危ないから、普段は鍵をかけてるいんだけどさ」
背の高い鉄格子扉の鍵を開錠して、先に行くキバナさんの背中に引き寄せられるよう続いて進む。流されてついてきたくせに、随分現金なわたしだ。少し急な階段を一歩、一歩と踏み締めるたび高鳴る心臓を落ち着かせようとぐっ、と呼吸をとめる。けれど、登り切った先で一望できる景色に、わたしを息を呑んだ。静かに吐き出す息は、震えていた。
ワイルドエリア全体を包み込むように照らす眩しすぎる太陽、目を見開いて焼き付けておきたいのに、その熱さがそれを許してくれない。鮮やかな緑は、木々は、光の恵みを受けて呼吸をしている。風が揺らし擦れ合う、葉と葉の音が耳に心地良い。肌寒い朝の気温が、暖かな日差しで段々と高まるのが分かる。ランニングをしていたわたしには、暑いくらい。あれはどの辺りだろう、暫く降り続いた雪が積もりキラキラと反射していた。溶けてしまうのも時間の問題、ここから真っ直ぐに飛んでいけたら、雪にはしゃぐポケモンたちを撮れるかもしれないのに。
まるで世界の始まりのような、今世界が生まれたのではないかと錯覚してしまうような光景に、どうしてかこみ上げてくる涙をなんとか堪える。あぁ、上手く言葉にならないのが歯痒い。あの頃夢にまで見たワイルドエリアが、目の前にあるのだと改めて実感した。うん、わたし、やっぱり、
「そう、だよねぇ…」
「ん、なに?」
「いつカントーに戻る事になるか分からないからこそ、ここでの日々をわたし、無駄にしたくない」
強くそう思った。一人で変わらない毎日でも、ただ仕事に追われる毎日でも、ガラルの地を踏んだからには実りある日々を。夜のワイルドエリアは怖いなぁ、なんて、確かに度胸と無謀は別物で甘くみて安易な気持ちで挑戦していいところではないけれど、目の前にありながら燻っている自分はあまりにもちっぽけだ。遠い地方からここまできた勢いはあっても、その先に進めず悩んでいるなんて。届きそうで届かない、けれど一歩踏み込める場所に、すでにわたしは立っていたんだ。自分の足で、立っているんだ。
「ちゃん」
見上げると、キバナさんがわたしをじっと見下ろしていた。
「写真の件なんだけれど、本当にダメかな」
そう言うキバナさんの瞳は、あの日バルコニーで気紛れにわたしへ声をかけたキバナさんの瞳とは全く違っていた。キバナさんは今、真剣に、実直に言葉を紡ごうとしている。
「撮ってくれる人なら誰でもいいわけじゃないんだ。ちゃんの撮る写真が好きだから、ちゃんに撮ってもらいたい」淀みがなく真っ直ぐで、あぁ、この色は、無限に広がるホリゾンブルー。澄み切った、なによりも綺麗な青。わたしは持ち合わせていない、なんて美しい瞳だろうか。
「ちゃんのレンズを通して写るあいつらを、見てみたいんだ」
あの写真集は数えるだけしか出版しなかった、それのファンとかなんとか言って揶揄われていると思っていた自分が、情けない。けれどキバナさんのちょっと軽いノリも悪い気がする。そうでしょう?今回は痛み分けということで、許してくださるでしょうか。
わたしの心は、とても穏やかだった。
「分かりました」
視線を逸さずに、じっと、青い瞳を見つめて答える。真剣なお話に、目を逸らすなんて失礼ってものじゃあないですか。今の彼の瞳は、嘘をつかない。
「引き受けます」
「は、ま、マジ?! 二言は?!」
「ありません。ただし金額はわたしの言い値で支払って頂きます、あれは高すぎます」
「うんっ」
「それからわたしプロじゃないので、出来上がってからの文句はなしですよ」
「まさかそんな言うわけねぇって!」
どうやらわたしはおかしいようだ。にわかファン程度の淡い恋心など、あの時に打ち砕かれてしまえば良かったのに、これではまるで百年の恋ではないか。彼のこの笑顔を、喜びようを目の当たりにしてしまったら、引き受けることにして良かったと、ただそう思ってしまう自分が居た。なんて人たらしで、こわい人だろう。
結局これが惚れた弱みというやつなのかは分からないけれど、故郷の母が知ったら大爆笑ものだろう。
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