目深にかぶったキャップに黒いマスク、黒のパーカーにタイトなデニム。あからさまに不審者ですと言わんばかりの格好だと自覚はしているキバナだが、堂々と素性を晒して職場に押し掛けるなんて真似が流石に出来るわけもなく。対策しても悲しいかな、キバナほどの高身長ともなれば背格好だけでバレてしまう要因になり得るのだ。些細な抵抗ではあるが背中を可能な限り丸めて、主がきたらなんて言おうか何度も何度も頭の中で繰り返す。いつの間にか眉間には、皺。
まずは、待ち伏せするような真似してごめん、少し話しがしたいんだけれど良かったら時間貰えないか、だろ、もし時間を貰えたら、あ?もら、えない可能性もあるのか?ある、よな…っ、あーその場合は、えと、いや、いやいや、とりあえず貰えた場合はこの間の事、素直にごめんって謝って、言い訳出来る事じゃないから絶対にしない、で、やり直したいって思ってる、チャンスを貰えないかって伝えよう、もし、もしも貰えなかったら、

「ぁ……」

人の気配に気が付いて顔を上げたその先に居たのはだった。ドクンッと心臓が跳ね、心音が全身に響き渡る。慌てて息を吸い名前を呼ぼうとした瞬間、はさっと職場の裏口へ向かって駆け出し、そのままキバナの方を見向きもせず扉をぱたんと閉じてしまった。後者だ、それどころか会話すらさせてはくれなかった。全身の力が抜けその場にしゃがみ込みむと、深いため息を吐く。吐きたくて吐いたわけではない、自然と出てしまうのだ。帰宅してソファに身を預けた瞬間、仕事を片付け一息ついた瞬間、何も考えないその一瞬に、零れ落ちてしまうのだ。

「うぅ…どう、すれば…」

思わず呟く。けれど腕時計は、もうジムに向かわなければ遅刻してしまう時間をさしている。正直仕事の気分ではない。しかし真面目なキバナが当日急に欠勤するわけもなく、重い腰をあげ後ろ髪を引かれる思いでその場を後にするしかなかった。明日は、何て言おう、なんて声をかけようかと負を背負って歩く姿は正しく不審者そのもの。
懲りもせずに、二日目三日目とを待ち続けたが結果は一日目と同じだった。他に手立てが思い浮かばないキバナにとっては藁にも縋る思いなわけで、どうにかここで粘り勝ちに持ち込みたい、格好悪くとも持ち込まなくてはならない。そして四日目、遂にその日は訪れた。カツカツカツと、にしては大股で脇目も振らずキバナ目掛けて一直線。ピタリとキバナの目前で止まった主は、顔は上げても視線を合わせる素振りはなく斜め下を見たまま。それでもキバナは嬉しくて、思わずマスクの下の表情を緩ませた。
身長差がある二人にとってそれは案外大きな障害で、背の低いの声は、特に下を向いたまま話しをされてしまっては、その声はキバナの耳まで届かないのだ。今の身長に慣れたキバナには普通の事だったが、は知らなかったと、それからは必ずキバナを見上げてから言葉を発するようになってくれた。見上げるのは大変だろうと皆に気を使い必ず屈んでいたキバナが、と話す時は自分が屈む事もあるが、見上げて貰う事も多くて。首疲れるだろ、とに一度言った事があった。そうすると彼女は、屈むのも大変じゃあないの?と、おかしそうにくすくすと笑った。たったそれだけ、些細なそれだけが、キバナにとってはとても嬉しかったのだ。
あの時くすくすと笑っていたの小さな口が、ゆっくりと開く。彼女の声が聞きたくて聞きたくて、待ちわびた瞬間だった、はずなのに。

「週始めから裏口で誰かを待っているのあなたじゃないかって噂になってるから迷惑だ、やめてくれって」
「言われたんですか」

酒すらも煽る気にはなれないようで、キバナは終始テーブルに突っ伏したまま顔をあげようとはしない。気力すらもないのだろう。すでに人間の姿を保っているのもしんどいように見える。

「オレさまがポケモンだったらな…の手持ちにして貰えるのに…」
「いいんですか、手持ちで」
「よくない、けどさ〜〜〜っ」

の傍に居る事が許されるならもう何だって構いやしない、それこそ手段なんて選んでいられない。

「それにしても四日も通い詰めるとは、よく心折れませんね」
「とっくに折れてるっつうの…」

正確に言えば一日目から、とっくに。そして軽率に別れに承諾した自分を恨み自問自答する日々だ。

「メッセージは既読スルー、ブロックされてないだけマシだけれど」

マシだけれど、仕事中も手隙があればもしかして返信がきているかもしれないという淡い期待を捨てきれず、ついついスマホを触ってしまう。そして結果は言わずもがな、続くのは必ず深い溜め息。期待した分、結果が返ってこなかった時のダメージは大きい。

「だからって職場まで行きます?」
「例え元カレだろうと家の前で待たれたら怖いだろ」

元カレと口にしたのは自分のくせに、ううぅと呻き声を上げ出す始末。あのドラゴンストームが自滅なんて、スタジアムでやらかしでもしたら即炎上間違いなしの案件である。

「職場で待たれても怖いと思いますが」

ネズときたら慰める様子もなく、突っ伏したままのキバナを酒の肴にしている。

「迷惑は仕方ない、した自覚もあるし悪いと思ってる。けど、あなたって、なんだよ…名前も呼んでくれねぇの…」

小さくなった氷はバランスを保てず、たまらずカランと音を立てる。注文したはいいが一口も口をつけていないグラスの表面には、びっしりと水滴の集まりが。少し指先で触れただけで重力に負けて零れ落ち、グラスの底を水溜りにしていく。物憂いげな表情ですらりと長い指先を遊ばせるキバナの姿を見つければ、世の女性は放っておかないだろう。個室を確保できて良かったと、心底ネズに思わせた。

「待ち伏せを続けるつもりではないですよね」
「来週以降のシフトは分からないから行きようがない」
「今週のはどうして…え、ストーカー、」
「別れる前に! 今週までのシフトは聞いてたから!」

別れる前、今度は、はああぁぁと溜息を吐き出す。なんとまぁ、辛気臭い男だろう。
それは失礼しましたと、申し訳なさそうには到底思ってはいない様子のネズが言葉を続ける。

「まさかとは思いますが、迷惑と言われなかったら行き続けていましたか」
「…」
「黙秘は肯定とみなしますよ。はは、こわ」
「ネズ!!!」

音を立てて立ち上がったキバナが、痺れをきたし、恨めしそうにネズを見下ろす。

「慰めるとか、普通してくれるもんじゃねぇの」
「慰めて貰っている暇があるんですか?」

人の心は移ろいゆくもの。いつまでの気持ちがキバナに留まっているかなんて分かりやしないし、明日にでも良い人が見つかってそのままゴールインだって考えられる。はたまた、物理的に遠くへ行ってしまうとか、そしてもう二度とガラルに戻って来ることが無く便りの送り先さえ分からなくなってしまうとか。いつまでも目の届く範囲に、手の届く範囲にがいてくれるとは限らない。

「彼女に対してどうするべきか、自身で考えなければならないという事も、分かっていますよね」

無言のまま、少しむくれた表情のキバナは、どこか兄に怒られた子供のよう。反論したいのに言葉が浮かばず、けれどキバナの瞳は、本当は分かっているのだと訴えている。誰の力も知恵も借りず自分が出来る限りの手を尽くし、誠意を伝え、をもう一度振り向かせなければ意味がない。自分だってそうしたいのに、策が一つも出てこないのだ。ダンデに挑むための戦略ならいくらでも可能性を見いだせるのに。
ネズはキバナが一口も口にしていないそれに自身のグラスを寄せる。カチン、と小さく鳴った乾杯の音は会話が消えた個室には案外大きく響き、お互いにどちらも一瞥することはなかった。





***




カーテンの隙間から溢れる太陽の日差しでキバナは目を覚ました。手探りで引き寄せようと思った人は居らず、広いベッドの上には自分一人。寝室からバルコニーに繋がるアコーディオンドアの側で、大きなクッションを枕にフライゴンが寝息をたててまだ夢の中。今日は一段と良い天気で、キラキラと光る木漏れ日はとても美しいのに、キバナの気分は到底上がりそうにもなかった。一度目を伏せてみるが、再度開き直しても当たり前に変わらない景色。ため息は二酸化炭素の排出に溶け込み、最早血を巡らせる為の外呼吸の一部と化してしまった。街が活動を始めるには少し早い静寂が包み込むこの時間に、キバナは何故か居心地の悪さを感じる。何故だろう、理由に気付くには頭が痛くて、枕に顔を埋めるとぎゅっと強く目を瞑り、微睡の中へおちていった。