それからキバナはが勤める飲食店に、よく食事をしに来るようになった。以前から店自体を気に入っていたのは確かだが、特定の店に間隔もあけず訪れすぎてはゴシップのいいカモにされかねない。それを分かっていないキバナではないはずだし、ポケモントレーナーの彼が鍛え上げているのはなにも手持ちの子達だけの話ではない。己の身体も勿論、時にはカロリーセーブをしたり、ストイックに取り組んでいるキバナが外食続きなのもいかがなものか。これまたSNSで、お遊びでトレーナーやってんじゃねぇよ!などと言われ炎上しかねない案件だ。の心配は露知らず、キバナの注文をとりに行った同僚はおずおずと二言三言話すと満面の笑みを浮かべ、ポケットにさしていたスマホを取り出す。ファンサに定評のあるキバナだが、プライベートな時間ではやんわりと断っていることを知っているは、思わず息をのむ自身に戸惑い慌てて目を逸らした。客が少ない時間帯とはいえ迂闊な。そう、キバナは決まって客の少ない時間帯にやってくる。人が多くいても騒ぎになるが、少なければ少ないなりのリスクがある。

そうだ、焼き立てのスコーンを並べなくては。は店内の一角にあるパンコーナーにスコーンの補充へ向かう。プレーン、ベリー、アールグレイ。焼き立てのこの香りに勝るものはない。なにも焼き立てのスコーンに限ったものではなく、香りというものは心を落ち着かせてくれる。今日はスコーンを買って帰ろう、お店特製のクリームをつけて頬張れば、尚のこと元気になれる。明日は休みだし茶葉から紅茶を入れて、ゆったり夜を過ごすのだ。良い香りに美味しい食事はつきもの。笑顔になれる食事は心身共に生きる糧なのだ。

〜っ、やっぱりキバナさまだった!」

こそこそと隣にやってきた彼女の手元にはスマートフォン。小声で、見て!と差し出されたそのケースにも見慣れたキバナのサイン。見慣れていたはずなのに、何故かとても懐かしい。それもそうだ、キバナに関わる物から情報まで、極力視界に入らないよう努めていたのだから。街は少し俯き加減で歩いているし、部屋では見てもいないドラマをつけっ放し。

「サイン貰っちゃった」

サインには直接触れない程度に、愛おしそうにそっと彼女はなぞる。

「かっこいいね」
「ね! プライベートだから写真はダメだったけど」
「そうなんだ」
「でもこのサインは家宝だよ」

こんなにも嬉しそうな彼女を今までに見た事があっただろうか。目が合うとより一層笑みを深めるものだから、自然とも笑みを浮かべる。背が高くジム通いが趣味のスタイルの良い彼女なら、きっとキバナの隣に並んでも遜色ないだろう。むしろ容易く想像できる。

「やばっ、店長睨んでる」

客からは見えない角度に立ち二人をジト目で見つめる店長をみつけた彼女に、は手を引かれる。面倒見も良くて、しっかりした人。裏表がなく、分け隔てなく接してくれる。そう、少しキバナに似ているような気がする。

その日の事を切欠に、キバナがくると彼女が注文を取りに行ったり会計をする事が増えた。基本的にとシフトが被っているため、否応なしに二人が仲良さげに話している姿を視界に入れなくてはならず最初こそはなかなか落ち着かなかったも、回数を増す毎に慣れ、という言い方はおかしいだろうか。それが自然な光景だと受け入れられるようになっていった。案外早く、キバナとの関係は過去のことにできそうな気がする。病は気からというし、恋の病とか、恋は盲目というし、これもまぁ似たようなものだ。

「あのっ、良かったら連絡先教えて貰えませんか」

それは会計を済ませた直後、しかも割と大きめの声で店内に少し響いた。

「え、っと、」
「もしもお付き合いしている人がいなかったら」

緊張しているのか早口で話す青年は、大人しそうで優しそうな印象。歳はと変わらないくらいだろうか。何度か店を利用してくれていた人で、顔には見覚えがあった。
恋人は確かにいない、そもそも別れたばかりだ。だからこそ気乗りもしない。むしろ当分恋愛はいいかなと思うし、店先で声をかけられただ連絡先を教えただけで、脈があると勘違いされることもある。出会いを求めるにしたってその選択はハイリスクだ。
レシートだけ乗せたトレーを彼の前に差し出す。はこういう時、期待をさせてはいけないと身をもって知っていた。

「ごめんなさい」
「そうですよ、ね、こちらこそ急に、すみません」

男性は顔を赤くしレシートを握りしめると、逃げるように店を出て行く。もしかしなくても、彼はもうこの店には来てくれない。はっきりと好意を伝えたわけではなくとも、告白したも同然、そして振られたも同然。それでも店に通い続けるなんて、普通のメンタルでは難しい。
レジ近くの席に座っていた二人組がひそひそと話す。顔を上げた瞬間視線が合ってしまい、まるで自分の事を言われているような気になりは居た堪れなくなる。思わず肩を落として戻った厨房では、同僚が神妙な面持ちで待ち構えていた。