時刻はまだの勤める飲食店の開店前。用事を済ませてから寄るつもりではいたが、それでも何気なく店のある通りに出てみると見慣れた制服姿の女性が箒を持って一人、立っていた。遠目からでもキバナには分かる、だ。浮き足立ち思わず早足になる。それを悟られたくなくて、距離が近くなるにつれ徐々に速度を落としていく。あと数歩というところでキバナに気付いたは、変わらず眉尻を下げるものだから、キバナは思わず苦笑する。

「おはよ」

おはようと、に声をかけたのは何週間ぶりだろう。たったそれだけの事だが以前は当たり前にに対してかけていた挨拶を久しぶりに声に出来た事が嬉しくて、滲みそうになった涙を堪えるため奥歯をぐっと噛み締める。けれどは箒を持った手を握りしめ俯いたままで、キバナから表情は窺えない。背が高すぎるのも、考えものだ。

「連絡、待ってたんだけどもなぁ」

は、ふるふると横に首を振る。会話もしたくない程に、まだ怒っているのだろうか。いや、まだ、なんて言い方はあんまりだ。元々はキバナが撒いた種、そんな言い方をするのはあまりにも酷い。それとも、自分ではない他の誰かと幸せにと、変わらず思っているのだろうか。その気持ちが今は強くて、キバナは、もう眼中にない?

「また後でくるから、少し、話しができたら嬉しい、です」

心が折れかけて、思わず語尾だけぎこちなく敬語になる。まだ折れてない、ほんの少し、ヒビが入った程度だ。
指先に触れたいのを、本当は指先だけじゃあなく、自分よりもずっと小さなの体を強く抱き締めたい我意を押し込み背を向ける。瞬間から呼び止められる、という事も無くスムーズに進む歩み。今にでも泣き散らかしたい、人の目など気にせず子供の癇癪のように騒ぎ立て、その瞳に自分を写して欲しい。情けない姿を晒す事でが腕の中に戻ってきてくれるなら、恥も性分も捨てて晒すのに。けれどそれで、それこそ元の鞘に収まるわけもなく。角を曲がるタイミングでちらりと盗み見た先に、の姿はすでになかった。

あれからキバナは、ネズにもダンデにも相談どころか弱音事も言わず、どうしたらいいのかそればかりを考えている。ネズの言う通り、高価な金品の貢物に目移りして喧嘩を無かった事にしてくれるような品性の欠けたではない。別れた直後に何度か入れた連絡への返答もなければ、話し合いの場を設けたくともその切欠さえ、与えてはくれない。なら、もっとずっと強引に引き寄せればいいのか。しかし、押しに弱いでもない。

「はあぁぁ…」

ここ暫くため息三昧の日々。この間は、トレーニング中に突拍子もなく深いため息を吐きリョータをぎょっとさせた。和やかに話していたと思った矢先にそれでは、ぎょっともなる。情緒不安定認定をされていることは間違いなく、リョータ達の優しい気遣いが、キバナを余計惨めにさせた。ため息を吐くと幸せが逃げる、なんて言うが、キバナの幸せはため息を吐くとっくの前に逃げている。

用事を済ませて早く来たつもりのキバナだったが、はもう退勤した後で完全なる肩透かしだ。店内に入ってしまった以上、食事をしていくか、ベーカリーを買って帰らない事には不審に思われてしまう。目当てである事をひた隠し通い詰めた苦労を、ここで無駄には絶対にできない。
せめて押しが弱くあってくれれば、しつこく待ち伏せを続けたあの時にどうにかなっていたようにも思うが、そうは言ってもそうならなかったのだからズルズルと女々しいというもの。というのも、その時点でもうキバナには、に振り返って貰う為の他の手立ては全く浮かびもしなかったのだ。今まで女遊びをしてきたつもりはない。けれど大抵の子はちょっと良いアクセサリーやバッグを差し出せば、優しい声で甘えれば、キバナにはどうにかなってきたのだ。せめて、あの時の、別れよう、という提案に自分が頷いてさえいなければ。思考を巡らせていると、行き着くところはいつもそこだ。
出会う所からゆっくりと時間をかけるしかないとキバナは思った。に対する自分の気持ちを、急に全部丸ごととは言わない、スプーン一杯ずつでも汲み取って貰えれば。その為に誠実に、焦らずに、ゆっくりと通い詰めていたつもりだったのだが。
キッシュを数種類乗せたトレーをレジに置く。呼び鈴を鳴らすとの同僚が笑顔で駆け寄っては来たが、笑顔にはいつもの覇気がない。

「なんだか元気ない?」
「えっ、あ〜…分かっちゃいました?」

キッシュを箱に詰めながら、流石キバナ様、と冗談混じりに言うが、図星をつかれた彼女は上手く笑えていない。

「実は、同僚が辞めるかもしれなくて」
「それってもしかして、ちゃん?」

咄嗟に口走ってしまい後悔するが、後の祭り。の情報ならいかなる小さな事でさえ欲している飢えが仇となった。
彼女はニマニマと、楽しげに口の端を吊り上げる。

「え〜なんですか〜? もしかしてキバナさんも目当ての店通いですか?」
「ん? も?」
目当てのお客さん多いんですよ、見ての通り、うちの看板娘可愛いですから」

まるで自分の事のように自慢する彼女に、キバナも内心で激しく首を縦に振る。

「その上、接客態度も評判良いですし、そりゃ目当てのお客さんも増えちゃいますよねぇ」
「態度が良いのは好印象だもんな、男は勘違いするわ」
「そこなんですよ! あ、お会計は」
「いつものキャッシュレスで」
「はい。仕事もテキパキこなすし、カントーの人ってやっぱ真面目だなぁって思いますけど、でもやっぱは特別なんですよね。なんていうか、人として?」

上手く言えないんですけど、と言う彼女に、キバナはまたも同意だ。容姿だとか接客の対応の良さだとか、誰の目にも見える部分の話しではなくて、内面の話し。細やかな心配りも、丁寧な仕事ぶりもがカントー地方の出身者だからという理由だけに言い包められていいものではない。他でもない、だから。

「辞めたらやだなぁ…」

怒られた子供のようなその表情に、本当にが辞めるかもしれないという、キバナにとっては思わずまたまた!と笑い飛ばしてしまいそうになったそれが事実なのだと、実感がわいてくる。職場は良い人ばかりで仕事も好きだと言っていたのを、キバナは覚えている。食材に拘った料理だからこそ美味しそうに食べてくれるのが嬉しい、SNSに写真が載ってるとニコニコしちゃう、焼き立てのベーカリーの香りは最高!と、幸せそうに仕事の話しをしていたが辞めるという選択肢を選ぶとは到底考えられなくて、つまりは、本人の意図しないやむを得ない決断、ということではないのだろうか。

「店長は、なんて?」
「もちろん店長も同じ意見です!」
「じゃあ辞める必要ないんじゃないのか?」

あくまでも自然に問いかけたつもりだったが、彼女は催眠術がとけたように、はっとすると慌ててキッシュを詰めた箱を袋に入れ手持ちの部分をキバナに突き出した。仕事中だというのに、余計な事をベラベラと話してしまったという反省の色が伺える。

「話聞いて貰っておいてすみません、こればっかりはの事なんで勝手に話すわけには…って、うわっ」

大袈裟に驚いた彼女の視線は、キバナを通り越した先を向いている。嫌な予感がしつつも、点線を辿るように恐る恐る振り返るとそこに居たのは、仏頂面で仁王立ちをしたルリナだった。