古文の課題中にも関わらず、佳主馬は手元にある国語辞書を手にとりぱらぱらとページを走らせた。何気ない行動と思われたそれだったが調べたい目的の単語があったようで、や行で一旦動きを鈍くさせると一ページずつ慎重に捲っていく。ぴたりと視線が止まったのは発音は同じであるが意味合いが多少異なる易しい、の隣に並ぶ優しい、という単語。

上品である。すなお。おとなしい。情け深い。

がいうその意味に当てはまるものが一切ない気がして、分厚くてただ荷物になるだけの辞書を静かに閉じた。強いて言うなら情け深い、か。求めている答えを知ることができないなんて、そんな役割を果たしきれない書物があっていいのだろうか。陣内家の納戸に元からある国語辞書で佳主馬が持参したものではないけれど持ち歩いてまで愛用したくはないなと思わせる。そんな佳主馬は授業で必要となる英和辞書や和英辞書をはじめとする辞書や教科書という名のつくものは全て、机の中におさめたまま試験期間に入らなければ普段持ち帰るなどという律儀な真似はしたことがない。正直佳主馬に限らず生徒全般の普通がそれであると思われるが。
ちらりと、視界に入ったのはデザインが気に入って購入したスマートフォン。デザインだけで決めるだなんて、と言ううんちく自慢同様な人は稀にいるが、勿論デザインだけで決めたわけではなく性能だって十分に申し分ない。単に決定打が佳主馬にとっては珍しくデザインだったというだけだ。
辞書のアプリを起動させ、目的の単語を入力すればアナログな辞書と変わらず二つの「やさしい」が候補にあがった。選ぶはやはり後者。そしてそれは先頭にいた。

性質や態度に思いやりや慈しみの心がこもっているさま。

正にこれだ、これに違いない。はどうしてか、佳主馬は上記のような振る舞いを至極当然に行っているというのだ。佳主馬からしてみたらそれこそ健二が良い例えで、自分なんて到底及ばない存在だと理解しているつもりでいる。
まず大体にして、自分自身が優しい出来た人間であると自覚しているナルシストの感覚は、普通の人間の感覚とは比べ物にならないくらい麻痺している。どこか尋常じゃないほどにネジがずれている勘違いパターンが多いのだ、間違いない。そうじゃなければ健二を含めた陣内家に関わる人間は誰しもが胸を張って主張したっていいと佳主馬が思える、優しい人たちだ。そう考えるとの言う優しいという意図も分からないでもないが、自分は優しい、だなんて思ったこともない為に疑問はわだかまりとなってしまった。だからといって自分が優しくない人間だなんて佳主馬自身も思ったことだって一度もないのだけれど、と考えれば考えるほど悪循環になってしまうのでこの辺りでやめておこう。

何はともあれどうしてどこにでも有り触れている単語一つに頭を悩ませているのかというと、やはり発端はにあるわけだ。
いつかひょんなことから知り合ったと同い年の山之手真紀、彼女につい口を滑らせて想い人がいることを話してしまったのが原因になる。はっきりと口にしてしまったわけではない、ぼそりと、しかも聞こえるか聞こえないかぐらいのほんの小さな声で、想い人がいるような発言を真紀はうんざりしてしまうくらいの地獄耳で聞き取ってしまったのだ。その後は粗方想像がつく通り、どんな人なのか根掘り葉掘り聞かれ顔がみたい映像はないのか写真を見せろとそれはもうしつこかった。しつこいマシンガントークだけならまだしも、本当の問題はそこから。画像がないなら直接見に行くしかないよねと、真紀が勝手に結論付けてしまったおかげでとある夏の日、佳主馬の反対を押し切りまさか陣内家の敷居を跨ぐことになろうとは。そこからは佳主馬が年上の女性をつれてきた、のことは諦めたのか、と久しぶりに大騒動。運良くは多忙で帰省できなかった年で、あれよこれよと様々な手段を駆使しなんとか騒動も治めることができたのだが、どうやらその件をの兄である翔太は夏希からきつく口止めされていたらしい。どうりで二人が仲良くしていることを良くは思っていない翔太が大人しくしているわけだ、とようやく佳主馬が納得できたのはついさっき。夏希が席を外しているのをいいことに、はっ、と思い出したように池沢佳主馬年上彼女疑惑騒動をべらべらとに非常に腹の立つしたり顔で話し始めたのが誰でもない翔太。佳主馬の気持ちにが気付いてはまずいと思ってのことか、真紀が来た本来の目的は話さず上手く話を構成していった。いくつになっても肝心な時には一つも使えないくせに、悪知恵だけはよく働く。
と視線が交わって「一度行ってみたいって言い出してきかなかったから」と、少々言い訳にも聞こえるありきたりな台詞しか絞りだす。ただの友達だよ、それを一番に伝えたかったのにのたったの一言で、何も言い返せなくなった。

「佳主馬、優しいもんね」

優しいから、なんだというのだ。
いつ疎遠になるかも分からない友人という関係にしかない真紀を、女性一人だけを、友人だなんて仮に真実だとしてもまるで家族に紹介するような形になってしまう状況だというのに連れては来ないだろう。友人だというのなら複数人連れてくるのが妥当というもの、そうだろう?悪いことをしたと佳主馬はちっとも思ってはいない、当然だ、だって真紀とは本当に友人以外にどんな関係にもこれっぽっちも当てはまらないからだ。それでもそうして欲しかったと感じてしまうのだから、どうかしている。

(少しくらい責めてくれたっていいのに)

嫉妬の欠片くらい、くれたっていいじゃないか。
相手にあえて不親切な行動をとる必要性はないけれど、佳主馬がに対する気持ちと同等の思いやりを他人にも与えているんだと、きっとはそう思っているのだ。だから気にもかけない、佳主馬はそういう人だからと割り切っているのだ。随分とできた恋人じゃあないか、泣けてくる。









優しい、だなんて
褒め言葉じゃない









おかげで僕はこんなにも苦しい。