は納戸の扉を軽くノックすると、佳主馬が振り向くのを黙って待つ。ヘッドフォンから音漏れするくらいの音量で音楽を聴いているのを利用して、気付いても気付かないふりをすることがあるらしい。 勿論聖美情報だ。には暗号にしか見えないプログラムが、画面にいくつか開いているウィンドウに表示されていて、佳主馬は黙々とプログラミングを行っている。自分よりも5歳も下の中学1年生が仕事だなんて、いまいちピンとこない現状に複雑な気持ちになる。
意外にもすぐに反応を示した佳主馬が、片方のヘッドフォンを外す。

「ご飯」

夏希が彼氏を連れてきたということで大盛り上がりだった親戚一同は、お酒が入っていることもあってようやくさっき沈下したところらしい。キッチンに麦茶を飲みに行ったはちょうどおにぎりを握っている聖美に会い、佳主馬に届けてくれないかとお願いされたのだ。一度だけ大きくなった聖美のお腹に視線を向けると、いいですよ、と受け取ってここにいる。
完全にヘッドフォンを外した佳主馬に納戸へ少しだけ足を踏み入れると、おにぎりと麦茶ののっているお盆をそっと手渡す。

「ありがと」

こうして聖美が晩ご飯を準備しなかったら佳主馬は食べようとすらしなかったのではないかと、ふと思う。佳主馬の表情は流石のにも読み取り困難だ、他の親戚は表情豊かでとても分かりやすいから大抵考えていることだったりは、予想通り当たる。親戚に限らず普通の人は表情豊かが当たり前で、感情を分析することなんて容易い。けれどにとって佳主馬だけは違っていた、何に興味があるのかいまいち分からないし、何にも興味がなさそうにも見える。ただ知っていることはOMCの現チャンピョンであるキング・カズマのプレーヤーで、同じ祖父である万助を慕っているということくらい。以前に、の知っている中学1年生はこんなにも落ち着いていなかった。自身が中学1年生だった頃の記憶を掘り出し同級生の男子を思い浮かべてみるが、どこにも佳主馬のような男の子はいなかった。

「さっきの人って」
「健二くん?」

おにぎりを頬張りながらも変わらず視線は画面を向いている、よほど早急で大切な仕事なのだろう。









それはとても、
単純なこと









「夏希姉ちゃんの?」
「そう、彼氏さん」

わざわざ聞かなくても見知らぬ男性、しかも年齢は夏希やと変わりなさそうで、の連れでないとなれば必然的にそうなる。恐らく確認のためだろうが、佳主馬までも知っていて気になっていたとは、これでは本当に引き返すことはできないなと、夏希ではなく健二を哀れんだ。まぁ親戚一同の前で挨拶をしてしまった手前、もう後戻りなんて手段を選択することは不可能であるのは本人たちがよく理解しているだろう。

「てことは、男の人に触れられるようになったんだ」
「まぁ、そうだろうね」
「…なんか、どうでもよさそうだね」

適当に答えたせいで、佳主馬にはそういう風に捉えられてしまったようだ。少しだけの胸が痛む、そう、少しだけだ。

「そんなことない。あの人なら、夏希を任せられると思うよ」

夏希のことを本当に想っていて、とても優しい人。彼氏を演じなければならなくなったわけだが、食事の時に見せていた笑顔が、には演技だったとはとても思えなかった。あの笑顔がもしも演技だったとしたなら、健二は相当な策士でピエロだ、将来の仕事は詐欺師で決定間違いなし。

「ふうん」

どうでもいいのは佳主馬の方じゃないか、と言いたくなったのを堪える。その言い合いこそがにとってはどうでも良かった。無駄な体力を使うし、後々の気配りも面倒だ、何よりも本気でムキになり合うほど佳主馬とは親しくない。ここで言い返すことに意味はない。
お酒が入ってのお祭り騒ぎとは違うざわめきが、微かだが耳の中に流れ込み廊下を振り返る。の表情は険しい。

「どうかした?」
「なんか、騒がしい…」

するとすぐに叔母さんたちの怒鳴り声が飛び交う。慌てて走り出したが気になって、佳主馬もその後を追った。納戸から広間までは廊下を一直線、叔母さんたちの怒鳴り声がよく聞こえるのも当然。
親戚たちが囲むように視線を向ける先には夏希と、天然パーマの細身の男性、歳は三十代後半くらい。の姿を見つけると、過剰に驚いてみせる。

「おっ、か?」
「…お久しぶりです」

栄の夫である陣内家前当主の隠し子で幼少時代に栄に引き取られ陣内の一員となった、陣内侘助。10年前に突然消息を経ったきり疎遠になっていた、や佳主馬にとっては大叔父にあたる人だ。夏希は小さな頃から大分懐いていて、10年も経ったというのにあの頃と変わらない人懐っこさで帰ってきたらしい侘助に喜びを全身で表現していた。まだ3歳だった佳主馬にとっては記憶にない存在だろう。
素っ気無いの態度に気を悪くしたようで、侘助はつまらなそうにはき捨てた。

「なんだ、可愛げなくなっちまったなぁ。そんなんじゃモテねぇぞ」

その言葉にが一瞬むっとなるのを隣に居た佳主馬は見逃さなかった。唇をきゅっと結び嫌味でも言い返してやるという雰囲気だったが、嫌味を言われた本人が強制的に身を引く羽目となる。

「てめぇ人の妹に文句つけるってか!」

声を張り上げたのは兄である翔太、誰の目から見ても怒っているのは歴然としていた。普段兄妹仲がお世辞にも良いとはいえない二人だからこそ、翔太が激怒したことは皆が驚きだった。けれども一番に驚きの表情を隠しきれずにいたのはで、まるでこの世のものではない物を見るような目で翔太を見つめている。
そんなの状態に感情的になりすぎたあまり気付かない翔太は、勢い良くびしっと人差し指で詫助をさすと同時に言い放つ。

はなぁ、本当にお前の妹かって言われるほど可愛いって有名なんだよ!」

静まり返り声を発しようとする者はいない。風で草木が擦れあう音と蝉やコオロギの鳴き声が、寝静まったというわけでもないのによく聞こえる。いつもなら立っているはずのハヤテの耳は元気が無さげに垂れ、クーンと悲しそうな声をあげる。
佳主馬はそうなのか、まぁそうだろうねと納得している様子で、夏希は失礼にもそりゃあそうだ、とまるでいまさら何言ってるのと指摘しているよう。他の親戚、それは侘助も含め全員が夏希や佳主馬と同意見らしく、健二も例外ではないようだ。

「自虐ネタ?」
「痛いっ、でも事実だからフォローも出来ないわ〜」
ちゃん可愛いものね、翔太と違って」
「うっせー!!」

先ほどまでの張り詰めた、緊迫していた空気はどこかへ行ってしまったらしい。特に叔母さんたちが総勢で翔太を弄りはじめ、晩ご飯時と同じ状態。父である太助がぽん、と翔太の肩を叩く。晩ご飯時には芽生えなかった家族愛が、ここでようやくフォローという名で芽生えたか。

「まぁまぁ、俺も言われるから。娘さん、お父さんに似なくてよかったね、って」

完璧に侘助を責め立てる空気ではなくなってしまい、伯母や大伯母たちが食器の片づけをはじめる。侘助にべったりの夏希のことを気になりつつも、健二は片付けの手伝いに加勢してしまう、全く人が良いにもほどがある。
機嫌を悪くした翔太が鼻息を荒くして広間から去っていくのを、躊躇いがちにが追いかける。兄の後を追いかけるなんて何年振りだろうと脳裏に過ぎるのは、もうはっきりとは思い出せない幼い頃の記憶。周囲の言葉を気にすることなどせずに、無邪気に笑っていた頃の思い出。

「…なんで、庇ってくれたの」

翔太がリビングのソファに腰を降ろしたのを見計らって、静かに背後に立つ。夏希や了平だといつの間にか背後に居たが声をかけるとわざとらしいくらい驚くというのに、肩をぴくりともさせない。はじめからここに来ることを分かっていたような、妹のことだから分かるような。

「自分の妹が貶されたんだぞ、黙ってられるわけねぇだろ」

もう21歳で職業は警察官だというのに、表情は見えないが声色は明らかに不貞腐れていてまるで子供。
は正直いって、兄が自分のことを妹だと思っていたのだという事実に驚いた。自分はちゃんと兄だと思っていたくせに、思っているくせに。

「お兄ちゃんは、あたしのこと嫌いなんだと思ってた」
「はぁ?! んなわけねーだろ!」

耐えかねた翔太が勢いよく振り返る、正直いって、怒っているその顔は不細工。つまんねぇ冗談言ってんじゃねぇぞ、なんて本当警察官らしくない言葉遣いには成ってないなと思いながら、こんなにも翔太が怒る意味が分からなかった。

「夏希の方が可愛いみたいだし、いっつも比べる」

振り向かないでいてくれたら良かったのに、は顔を見ることが出来ずに視線を自分の足元におとした。透明のペディキュアが少しだけ剥がれ落ちている、もう一度、塗りなおさなければ。別のことを少しでも考えていないとこの場を凌ぐことが出来そうになかった。そもそも追いかけてこなければ良かったのに、どうしても翔太が自分を庇った理由を知りたくて、気がつくと足が勝手に翔太の背中を追っていた。
立ち上がった翔太が、と向かい合わせに立つ。

「むしろ、の方が嫌いだろ、俺のこと」

嫌いだなんて、そんなこと、一度も思ったことはなかった。嫌いだったとしたら同じ空間にいることさえ嫌がって、実家に篭って親戚の集まりにすら来ていない。首を横に振るう。

「ただ…」
「ただ、なんだよ」
「…落ち着きなくてお兄ちゃんらしくないし、恥ずかしいなって思うだけ」

翔太は一瞬声を張り上げようとして、やめた。中学高校の頃よく教員から注意されていた理由を思い出し、はっとした。 授業中煩い、声が大きい、落ち着きがない、それは今でも変わらない。中学の頃から自分よりも落ち着いている妹からすれば、恥ずかしい要素以外の何物でもなかっただろう。しっかりしてよと、思わずにはいられなかっただろう。
妹と全然似てないなと友人に言われるたびに、自分の容姿が大したことないと言われているようで嫌だった。反面、翔太は両親にも言ったことはなかったが、可愛いなと言われるが自慢だった。 嫌いだなんてむしろ逆で、自慢の妹だった、それは今も。かわって自分はどうだ、妹が自慢に思えるような部分が欠片でも微塵でも、あっただろうか。
普通の人より不器用な妹、夏希と比べて劣等感を抱かせてしまっていたのは、素直になれずにさせていたのは自分だったのだ。翔太の胸が痛む。

「ごめんな」

下を向いたまま微動だにしなかったの指先がぴくりと反応を示す。 顔を上げようとした瞬間、ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱される。 何事かと思い押し返してみるがあっさりと負けて顔を上げられない。

「気ぃつけるわ。だからはもっと笑え!」

辛うじてみつけた隙間から見た兄の笑顔は何年振りだろう。今日は驚いてばかりだと、繰り返し思い返す。

「マジで、可愛いんだからよ」