警察官の制服を着た翔太に健二が手錠をかけられて連行されていく姿を、夏希は呆然と見つめていた。車のエンジン音が微かに聞こえる少し前、夏希は急いで広間を飛び出していった。居てもたってもいられなくなったのだろうが、後を追いかけたところでできることは何も無い。
「、あんた知ってたね」
縁側に立って傍観者を決め込んでいたに、直美が疑問系で訊ねもせずに言い放った。というのも、夏希が縋るようにの名前を呼び助けを求めてきた様子から察知されてしまったのだ。本当に、人を巻き込むのがうまい。夏希の偽装彼氏計画を知っていたことで後ろめたいことなどには一つも無い。睨みをきかせる万里子、直美、理香に少しも怯えをみせずに一言。
「うん」
「知っていたなら何で言わなかったの!」
声を張り上げた万里子を栄が制し、じっと真っ直ぐにの瞳を見つめる。その場に居る全員がに視線を注ぐ。
「どうして黙っていたんだい?」
「夏希は悪気があったわけじゃない、とても純粋な気持ちで大おばあちゃんを喜ばせたかっただけ」
「だから、そんなことしてまでっ、」
今度は理香を栄が制する。
「そうだね、分かっているよ」
「あたしは、上手くいけばいいなと思ったの」
「嘘が、かい?」
まるで誘導尋問、分かっているような素振りなのに、栄はどうしてもの口から聞きたいらしい。分かっているのは栄だけで、万里子たちはちんぷんかんぷんといった様子。それだけではない、栄は夏希の嘘も初めから見破っていて、知っていながらも健二を将来の婿として認めたような。真実はともかく、にはそう見えた。
は夏希がまだ戻ってこないことを確認した上で栄に歩み寄ると、真正面に正座し落ち着く。それは二人が決めることだけれどもあたしはそう思うのだと、瞳に宿る力は強い。
「二人が」
最初の一歩
「おかえり」
「…た、ただいま」
自分の家に帰ってきたわけでもないのに、おかえりとに言われたことに気恥ずかしさを感じながらも、ただいまと返事をする。健二の背後で睨みをきかせている兄に、呆れたような溜息をはくと翔太がうっ、と苦汁をなめたような顔へさらに破顔する。
「だってなぁ!」
「アカウント盗まれてまともにログインも出来ないのに、何ができるっていうの」
お互いに交わす言葉は相変わらずなものの、今までとはどこか雰囲気の違う兄妹のやり取りに夏希があれ、と疑問を抱く。よくは分からないが良い方向へ向かっているのならそれにこしたことはない。自然と口元が緩む。 そんな夏希を見つけて、が気持ち悪いと一言口にすると、佳主馬と健二を挟んでいるにも関わらず酷い!と身を乗り出す。
『ラブマシーンの仕業に決まってんだろ。例のパスワードで、人のアカウント盗み放題だ』
制服姿の佐久間の背景は健二も夏希も見慣れている学校の物理部部室。
「アカウントって?」
「OZ内での身分証明」
夏希の問いかけに佳主馬が答える。
『OZで何でも出来る今、アカウントと現実の人間の権限はほぼ等しいんです。水道局員のアカウントを盗めば水道局のシステムを好きにできますしJR職員のアカウントを盗めばJRのダイヤを引っ掻き回せます』
PCには詳しくない夏希や翔太にはあまり事態が把握できていない様子で、かわって佳主馬との表情は暗い。
「登録者は10億人以上。今や世界中の様々な機関がOZアカウントを利用してる」
「OZの高いセキュリティ能力が裏目に出てるんだ」
『その通り。大統領のアカウントを盗めば、核ミサイルだって撃てるかも』
「えっ?」
「えぇっ?」
多少大袈裟かもしれないが、つまりはそういうことだ。現に交通機関は乱れ60kmの渋滞の上、高速道路は料金所が通過できないという状況。各所で高々と噴きあがる水柱は電力線への心配を訴えている。電話回線や通信回線など様々な回線と言う回線が混乱してしまい、救急車や消防車が出動しても現場では何も起きていないというのが現実だ。佳主馬の父も名古屋から出られないという連絡が先ほど聖美に入ったばかりで、PSPを弄りながらはそれを聞いていた。
健二が両手で頭をかかえると、蹲り自責の念にかられる。
「ボクのせいだ…」
「やっ、やっぱりこいつ逮捕だ!」
煩く立ち上がった翔太を振り返ったつもりが、視線はいつの間にか戸口に居た栄を見つけていた。神妙な面持ちで、ずっとたちの話を聞いていたらしい。
「これはあれだね。まるで敵に攻め込まれてるみたいじゃないか」
落ち着いているだけでなく威厳のあるその声色に張り詰める。栄を構成する何もかもは、あのぴんとした背筋のように真っ直ぐで一直線、誰にもあの一本気は崩せない。
「下手したら、死人が出るかもだね」
踵を返した栄の姿を追って全員が戸口に集まった。けれどそれだけでは我慢できなかったが我先へと立ち上がり、佳主馬に健二と続くと夏希と翔太までも。こういう時どうにか行動に移しそうな栄だが、一体どうするつもりなのか、気になった。寝室で手紙の束やら手帳やらを取り出し、ページを捲っては受話器に手を伸ばし、また捲っては受話器に手を伸ばしの繰り返し。初めは頼彦、次は邦彦、さらには克彦と身内を終えると今度は古い友人たちを筆頭に叱咤激励してはまたハガキの束に手を伸ばす。
「あんたならできる! できるって!」
力強い栄の言葉が、の心に浸透していく。出来ないことなんて何一つない、出来ないと思っているから出来ないのだ。一歩踏み出して兄とも和解したじゃないか、和解というにはあまりにも単純なことだったわけだが。勇気を振り絞って顔を上げたじゃないか。
「今話してた飯富って、警視総監だぜ」
「凄い…」
曾祖母の凄さは前々から知ってはたいものの、改めて見せ付けられると上手く言葉にならない。
「皆、おばあちゃんに励まされてるんだ…」
どこからか分からない力が溢れてきて、健二はすぐさま納戸へ戻るとディスプレイと対峙する。自分にも何か出来ることがあるはずだ、自分の出来ることをやれる範囲でやるんだ。
『OZのエンジニアが総出でことにあたってるけど、まだ管理等に入れないんだ。適当な数字打ち込んでみな』
佐久間は厚めの本を手元に、調べものをしながら指示を出す。健二は言われた通りに適当な数字を入力しエンターキーを押すと、数字ばかりが表記されたウィンドウが開いた。
『間違った数字を入力すると暗号が出てくる』
「これが、暗号?」
ただ数字が連なっているだけにしか見えないのは夏希だけでなくも同じ。だからなおのこと難解そうに見えるそれに眉を顰めた。
健二は自分のリュックからレポート用紙とシャーペンを取り出すと暗号の数字を読み取り、一心不乱にシャーペンを走らせた。書いては破り取り書いては破り取り。健二の周囲に散らばる紙切れを佳主馬は一枚ずつ拾い目を通すが、流石に2056桁の数字の暗号解読が出来るほど数学に長けているわけではなく、眺めるだけしかできなかった。佳主馬の隣に居たが少しだけ佳主馬に体を寄せ覗き見る。
の身長と佳主馬の身長は大体頭一つ分くらいの違いがある、の肩辺りが佳主馬の頭の位置。隣りあわせで座るということも滅多にないことで、間近にあるの顔をつい見つめてしまう。見上げることしかなかった存在を見下ろすと、景色は全く違った。
「こいつ、何者?」
「数学オリンピックの日本代表」
「に、成り損ねた者です」
顔を上げたに佳主馬の心臓が跳ね上がる。
「夏希、高校生クイズみたいなのだと、思ってないよねぇ?」
「えっ、違うの?」
「全然違うよ。確か、今年はドイツ」
「よくご存知でっ」
「テレビでやってたの。挑戦しただけでも相当凄いよ」
そう言って、もう一度佳主馬の手元にあるレポート用紙に視線を落とした。
「できた!」
導き出した英文を入力し再びエンターキーを押す。緊張の一瞬だったが、無事に弾かれる事無く映っていた暗号の数字たちが溶けていく。
「入れた!」
夏希が思わず歓喜の声を上げる。暗号を解いた本人は安堵の深い溜息をゆっくりとはく、とりあえずは一安心といったところか。は、ずっと無意味にも入りっぱなしだった肩の力を抜くと隣に居る佳主馬を向く。としては別に佳主馬を見るために向いたわけではなく、自然と首を動かした先にを見ている佳主馬が居たのだ。佳主馬とてを見ていたわけではないかもしれないが、ばちりとお互いの視線がぶつかり合ったことは間違いなかった。むしろこの近距離で勘違いをしている方がおかしい。見詰め合う形になり視線を逸らすのも気分を悪くさせてしまう気がして、何?という意を示すために少しだけ首を傾げてみせると佳主馬の方が先に視線を落とした。
本当になんだったのだろう、けれど佳主馬よりもには気になることがあった。
「お兄ちゃん」
「あ?」
「仕事、連絡した?」
「…っ、やっべ!」
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