きっとこれはまだ夢の中なのだと、思考で視野に言い聞かせるようには何度も心の中で呟く。夢の中で、悪夢という名の夢を見ているのだと。けれどまだ明方前だというのに夏の暑さで肌にこびり付く汗のベタつきも、素足で立っている畳の感覚も、叫び続ける親戚たちの悲痛の声も妙にリアル。鼓動が早くなっていくばかりの心臓音が和太鼓のように大きく、強く脳内で響く。当然だ、だってこれは、現実。
昨晩の出来事など比でないくらいに、は呆然と立ち尽くしたまま動けないでいた。呆然というよりも、呆然を遥かに飛び越えた絶望とでも言うべきか。すぐ傍で翔太は腰が抜けたように尻餅をつく、オーバーリアクションな兄の心境をには簡単に読み取れた。言うまでもなく、自分も同じだから。
すっかり汗まみれになった克彦が、蘇生術を続ける。暑さで体力の消費は大きいだろうに自分の体のことなどお構いなしに人工呼吸を繰り返す。もう何度同じシーンを見たか、誰にも分からない。内科医である万作がペンライトで栄の瞳孔を確認する。
「かわれ」
頼彦が克彦の肩に手をかけるが、克彦は腕の動きを止めない。
「もういい」
万作がペンライトを消しながら冷静に言った。
「だめよ克彦続けて!」
万里子が克彦の肩を揺さぶる。
「無駄だ」
「続けて!!」
一際大きな声で叫んだのは夏希、その声は逆に皆の涙を誘う。次第に飛び交っていた声はボリュームを下げ、終に沈黙が訪れた。克彦の腕が限界を迎え、栄の胸元から力なく退去する。
「皆、集まってるな」
万作は室内を見回し全員がいることを確認すると、腕時計を見た。
「5時21分…」
昨日までそこで笑っていた人が、ここに来れば会えることが当たり前であった存在が、いなくなった。
突然の、さよなら
自然と一同は広間に集まっていた。誰が何をするというわけでもなく、誰も一言も発することなく身を寄せ合うように、慰め合うようにそこに居た。健二に寄り添われ、ついに大声で子供のように泣き出した夏希をは遠巻きに見つめた。人の温もりに触れ、抑えていたものがいっきに爆発してしまったのだろう、破壊力は計り知れない。万里子や奈々までもさらに涙を滲ませ、二次災害もいいとこだ。
は静かに立ち上がると、そっと広間を立ち去る。広間からリビングやダイニングは丸見えだが、は足早にリビングを目指した。とりあえず落ち着きたかった、心を落ち着かせたかった。
ソファに前屈みで腰を降ろすと片膝だけ抱えて丸まり、瞳を閉じる。ゆっくり酸素を吸っては吐いてを交互に何度も行い瞼にぐっと力を込める、何もかも全てを心のずっと底に押し込めてしまうかのように。制御が効かなくなる前にそうしなければ、そう思うと怖かった。夏希のように曝け出せないは弱い部分を誰にも見せたことがない、幼い頃翔太と喧嘩をして泣いたこととは訳が違う。遠い記憶の自分と今の自分では年齢が大分違い過ぎた、最近泣いたのはいつだったか、覚えているのはいつだって一人だったってこと。本当は虫が苦手だったり怖い話が嫌いだったり女の子らしい一面があることも、唯一知っていたのは栄だけ、でも、もういない。
怖かった、弱い自分が。独りになってしまったのだと、感じてしまったことが、怖かった。
「どうしたの」
聖美に寄り添っていたはずの佳主馬だった。相変わらずの表情で、を見ていた。
「どうも、しないよ」
視線を交えたくない気持ちから、佳主馬の足元に目線を落とす。何も言わず動いた両足はが座っている傍のソファへ向かい、同じく座る佳主馬に、何故だろうと虚無ながらに思う。
「聖美さんの傍に、居てあげた方がいいよ。お腹の赤ちゃんも、心配」
「母さんならもう大丈夫」
一人にして欲しいという意味だったのだが、伝わらなかったらしい。いつものようにはっきり口にすれば、と思い、やめた。今口を開いてきっぱりと言ってしまえばいつもより厳しい口調で、それこそ喧嘩ごしに言ってしまいそうな気がしたからだ。翔太ならともかく、年下の従兄弟に八つ当たりだなんて、格好悪い真似はできない。
場所を変えよう、それこそ一度家に帰ればいいじゃないかと立ち上がり、佳主馬の前を通り過ぎようとした瞬間。の腕を掴んだのは紛れもなく佳主馬だった。振り返った先で不意に佳主馬と視線がぶつかり、逸らすタイミングを失う。
「そうやって、いつも一人で抱え込んでるの?」
ようやく大人しくなった心臓が跳ね上がり、心音を響かせる。普段は気にならない心臓音がこんなにも煩いものだったとは、憎らしくなる。
は掴まれている腕を少し自身の方へ引き寄せてみるが、佳主馬の力は想像以上に強く引き剥がせる気がしない。自分よりも頭一つ分は小さくて、細い男の子なのに。中学1年生の男の子ってこんな感じだったっけと、いつか思ったようなことを再度自己確認してみる。ものすごく焦っている時とか切羽詰っている時に限って、思うことは一番冷静なのは何故だろう。
「膝抱えて、自分で自分を慰めてるみたい」
だって、それしか知らない、知らなかった。ずっと翔太とは冷戦状態で、余程スキンシップが過剰な親でなければ難しい年頃になってしまった女子高生という娘に構いたがる親はいない。高校3年生になってもまだ頭を撫でて笑ってくれたのは栄だけで、励ましてくれたのは栄だけで。は夏希みたいに、甘え方も縋り方も知らないから。
「お腹が空いてるのと、一人でいるのはよくないって大ばあちゃん、言ってた」
忘れたのと、佳主馬が付け加える。忘れるわけがない、栄の言葉を忘れるなんて、それこそ地球が消滅する以上に有り得ないこと。侘助が帰ってきたあの晩も、栄は侘助に「腹は減ってないかい」と食事を勧めたのだと、は後から知った。部活帰り弓道着姿のまま、たまに立ち寄るにも栄はいつも晩ご飯を食べていきなさいと笑顔で言った。お腹、空いてるだろう、と。
の瞳が揺らぐ。
物思いに耽っているのか一言も喋らない上に、だからといって佳主馬の手を拒むこともしない。
耐えかねた佳主馬が思い切り白く、細い腕を引き寄せる。突然のことに反応できなかったはそのままソファに座っている佳主馬の胸元に倒れた。
「僕の胸、貸してあげるって言ってるの」
そう言って、優しくを包み込む。今度こそ拒まれることを覚悟していた佳主馬だが、は身じろぎ一つせず状況を把握できていないようにも見えた。佳主馬から見ては、佳主馬が知っている高校3年生である夏希とも真紀とも違う。たまに挑発的な発言をするが、周囲に漂う雰囲気はゆったりと落ち着いていて考え方も大人で、自分が想像していた高校3年生がまさにだ。
けれど実際の高校3年生は案外子供で、が飛び抜けて大人なのだと理解したのはつい最近。泣き喚く夏希の傍には健二がいて、けれどは夏希と違うから一人で大丈夫なのかもしれないと思った佳主馬を行動にうつしたのは、栄の言葉。
ほんの一瞬の出来事だった、の目尻に溜まった透明な粒がぽろりと勢いをつけて零れ落ちた。人の温もりに触れ、耐え切れなくなったのだ。
一度落ちてしまうと後は簡単で、次から次へと溢れては流れ落ち止まることを知らない。初めこそは無だったの表情が歪みを見せ、細められた瞳から溢れてくる涙は上睫毛と下睫毛に押しつぶされさらにぼろりと零れ落ちる。微かな嗚咽をもらし、頬を摺り寄せるようには佳主馬の胸元に顔を埋めた。
その姿に、佳主馬は無償に胸の苦しさを覚えた。やっぱり追いかけてきて良かった、この人を一人にしないで、一人で泣かせたりなんてしないで良かったと、思わせる。
は夏希とは違う、真紀とも違う。けれど同じ女の子で、同じ人間で、感情がないわけじゃないんだから、泣いて誰かに縋りたい時だってあるに決まっている。
軽くを包み込んでいた腕には自然と力が入り、気がつくと無意識のうちに強く抱き締めていた。は佳主馬の温もりに応えるように、佳主馬のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
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