万里子たちがキッチンへ向かう足音を聞きつけ、佳主馬の腕の中に居ることがすっかり落ち着いてしまっていたは軽く起き上がると、佳主馬の胸元を軽く押し返す。密着していないとソファの許容範囲外になってしまい、フローリングの上にへたり込む。ごめん、と一言呟くといまさら泣き顔を見られるのが嫌になったのか俯いたままごしごしと、目元をこすり付ける。

(何で謝るの? 謝るようなこと、してないだろ)

自分のシャツを涙で濡らしたことだろうか、それとも年上なのに年下の従兄弟に情けない姿を見せてしまったことだろうか。佳主馬はいくつか思いを侍らすが、どう考えてもが謝罪の言葉に相応しい何かを仕出かしたとは思えなくて、納得がいかない。

(ここは、ありがとう、が適切じゃない?)

フローリングの上で俯いたままでいるは、佳主馬がこの場を先に立ち去ってくれることを願って待機中。けれど、そんなことを考えてるんだろうなとお見通しの佳主馬はソファから降りると、片膝をついて目線をと同じ高さにする。目元をこすり付ける手の自由を片方だけ奪うと、も流石に佳主馬を見た、見ざるを得なかった。
心地の良い風が入り込み、二人の前髪をふわりと浮かせる。射しだした朝日が思いのほか眩しくて目を瞑りたくなったけれど、辛うじて堪えた。

(赤くなってる)

の頬を包むと、少しだけ赤くなった目尻に親指をあてまだ拭いきれていない涙を拭き取る。佳主馬の行動にどう反応すればいいのか分からないが伏せ目がちになると、佳主馬の親指に睫毛が触れた。それがなんだかくすぐったくて、もどかしくて。
強くて、でもとても弱い人。傍にいないと、ちゃんと見ていないとの心の揺らぎに気付けない自分が悔しい。一人で処理してもう大丈夫ですなんて、そんなの心配すぎて堪らない。いつかきっと、必ずきっと自身が駄目になってしまう。

(僕が、姉ちゃんの傍に居てあげられたら…)

そう思わずにはいられなかった。









知識欲









リビングとダイニングに一同が集結し、ようやく朝食の時間。自然と男性人はリビングに、女性人はダイニングにと空間を分けて集まっていた。会話をする者は居らず、いつもなら騒がしいくらいが丁度いいはずの空間は静寂で、違和感しか感じない。ハヤテもすっかり吼えるのをやめ、垂れた耳からは哀愁が漂う。
はリビングに背中を向け、おばたちの傍で箸を黙々とすすめていた。口に運ぶ量はいつもより少なく、口の動きはもごもごと噛むというよりもすり潰しているようにみえる。人前で泣いたのは何年振りだろう、しかも佳主馬の胸元で。

(恥ずかしい…)

心なしか耳が熱を帯び始めている気がして、しかもそれを意識すると更に耳だけでなく顔までも熱くなっていく。おさめ方が分からなくて徐々に深くなっていく俯き加減に、気付く者はいない。

今まであまり親しくしていなかった従兄弟に泣き顔を見られた上に、佳主馬のシャツを涙で濡らしてしまったという恥ずかしさが堪らない。翔太の前でだって、親の前でだって泣いた覚えはここ数年、の記憶に間違いがなければ小学校高学年以降からは確実にないと言い切る。笑うことは、栄の前ではたまにだけ。にとって泣き姿を誰かに見せるのは裸をさらし出すのと同じくらいの恥ずかしさと、勇気があった。弱い自分を見せる勇気、それは恐怖以外の何物でもない。

(違う、ただの、チキン)

怖がって一歩踏み出せないでいるだけ。やり方は翔太の時と同じ、思いきって一歩大またで踏み出してみればいいだけ。 けれどやっぱり怖いと思うと踏み出せない。
意地など張らずに、周囲の目など気になどせずに堂々と夏希のように泣けばよかったのだ。まるで恋焦がれていたような存在がいなくなってしまった哀しさを、一人で押し込めようとせず豪快にぶちまけてしまってもよかったではないか。 皆が哀しくて苦しくて、だけではなかったのだから、我慢する必要などなかった。寂しいよと、主張すればよかったのに。

(ありがとうって、言えばよかった)

佳主馬のおかげで泣けた、佳主馬が寄り添ってくれなければは一人で泣くこともせず抑え込んでしまっていた。何故あの時ごめんと謝罪の言葉を口にしてしまったのか、後悔がの後ろ髪を引く。
陣内家の人間に半端な男はいらないと、栄は口癖のように言っていた。

(佳主馬はもう立派な男だよ、大おばあちゃん)

自分でも情けないと思うの姿を決して笑うことなく、ただ抱き締めてくれた。泣いてもいいと、まだよりも小さい体で受け止めて、泣かせてくれた。中学1年生の佳主馬の体は少林寺拳法を万助から習っているとはいえまだ細くて、薄くて、けれどを引き寄せた力はとても強くて。客観的には小さくしかなかった存在が大きく感じた、とりあえず、今度からは佳主馬の胸で泣かせて貰おうかなと思えるほどには。
短い時間だったけれど、傍に居てくれた佳主馬、それは曾祖母の言いつけだから、か。そう思うと少しだけ悲しくなった、そう、少しだけだ。