いくらかの距離を離してポイントに誘い込まなければ作戦は上手くはいかなかった。扉の陰に隠れる瞬間を見られてしまっては意味をなさない。しかし佳主馬は見事に有言実行してみせたのだ、と呼吸を合わせチャンスをものにし、ラブマシーンを誘導させた。nuとラブマシーンの攻防戦はほんの数秒というわずかな間だったが、内容としては色濃く、呼吸さえも忘れた時間だった。健二には視線で追うだけがやっとだったというのに、が作り出した隙を見落とさずに狙っていった佳主馬は、流石キング・カズマなだけはある。
これでようやくOZ世界も落ち着きを取り戻し、現実世界も元通りになるのだ。
太助や子供たちの騒ぎ立てる声や音を自然と拾う聴覚など気にせず、はディスプレイにもう一度視線を向けた。瞳に映ったのは皮を剥ぐようにゆっくりと浮かび上がっていく瓦。重々しくそこに居た城が、内部から犯されていくかのように歪み始めた。

「ねぇ、なにか、おかしいよ」

呟くように小さな声だったが、聞き逃す人はいなかった。









暴走









「なんで?! ステージが変だよ!」
「どーなってんだこれっ」

歪みは徐々に大きくなり部分的に本体からの離脱をし始め、壁にはひびが目立つ。一体どうしてこんなことに、と困惑と焦りしか浮かんでこない表情は強張り絶望に満ちている。

『太助さん後ろ!』

ディスプレイの中から若干前のめり加減で叫んだ佐久間。

「あ? なに」

わけが分からず、太助はとりあえず立ち上がるとスパコンを配置してある部屋の襖を引いてみた。

「うわあああああああちぃ!!!」

尋常ではない熱気が太助を襲い、まともに浴びた皮膚が本来の黄色から茹蛸色に色づく。あまりの熱さに転げぱたぱたと頬を手で叩くが、なかなか治まろうとしない。の元に流れてきた熱気は太助が浴びたものに比べれば大したことはなかったが、それでもこの真夏に上乗せして汗を誘った。

「熱暴走だ!」
「えぇっ?!」
「ここにあった氷は?! あんなに沢山あったのにっ」

氷だけでなく金だらいまでもなくなっている。氷が解けきってしまっただけではなさそう。

「翔太兄が持ってったよー」

DSを片手に持ったままの真緒が廊下の方を指差して言った。
急いで翔太の元へ駆け出そうとしただったが、爆発音に足止めされ叶わなかった。内部からの爆発が城壁をふっとばし、歪むどころか崩壊を見せ始める。爆発で出来上がった穴から黒く大きな手が現れ、城の破片が雨のように降り注ぎアバターたちを混乱に陥れる。

「あれ、全部吸収されたアバターだ…」

遠くから見つめるサクマやケンジでさえも巨大さに圧倒される。逆に近距離でない分、個々のアバターというよりも一体の巨人にしか見えない。

「数は、4億以上…!」

ラブマシーン1体だけならまだしも、4億体のアバターを前に何ができるというのだ。リベンジだとか、これはもうそういう次元の話ではない、話にならない。
巨大な腕が振り上げられ、キング・カズマに伸びる。遠距離からでも存在の威圧さは圧倒的だというのに、間近で感じ気持ちが押しつぶされないわけが無い。動きは大分ゆったりしてはいるが恐怖という形のないものがの中を占め、立ち向かうだなんて恐れ多すぎる。

「佳主馬くん逃げて! 佳主馬くん!!」

健二が佳主馬の肩を強く揺さぶるが、身は竦み瞳孔が開ききったままディスプレイを見上げるしかできない。

逃げろ!!」

太助の叱咤にも似た声に我に返ったが、PSPを持ち上げる。

「ばっ、向かってってどうすんだ!」
「だってキング・カズマが!」
さん逃げてください! 今からじゃ間に合わない!」

アバターたちは我先にと別のアバターを押し退けてまで逃れようとしているというのに、恐怖を背負いながらもキング・カズマを按ずるとは。この場にいる誰もがの気持ちはよく分かる。自分の分身である大切なアバターを傷つけられて、いい様にされて、気分がいいわけがないじゃないか。けれども黒い手はすでにキング・カズマを手中にする寸前で、巻き込まれるどころか時すでに遅し。は悔しそうにnuを操ると、その場を離れる。
拳の中に捕まったキング・カズマはまるでボールでも投げる様に放られた。アバターや瓦礫にぶつかっても衰えることの知らないスピードのまま一直線に飛ばされ、壁に体ごとめり込む。大きな白い壁に比例するほどの亀裂が走り、傷だらけになったキング・カズマの首ががくっと項垂れる。もう、戦う力は残されていない。

「この暑さでばあちゃんが腐っちまうって時に、お子様はのんきにゲームかよ」

状況の把握すらできていない翔太が嫌味を言いながら佳主馬に詰め寄る。なんて憎たらしい顔をしているんだと思っただったが、OZでの出来事が信じられなくて喉で言葉が渋滞を起こしている。
肩を震わせ何か喋っている佳主馬の声がきちんと聞き取れず、翔太は眉をひそめた。

「あん? なんだって?」
「お前のせいだあっ!!」

聞こえないと近づいた翔太の顔面に、佳主馬が思い切り右ストレートを振りかぶった。翔太は腕に抱えていた氷を落とすと後方に派手な尻餅をつく。そのままの勢いで更に殴りかかろうとする佳主馬を健二が後ろから羽交い絞めに抑え込み、慌てて太助も加勢する。本来なら佳主馬に加勢したい太助だが、相手が自分の息子なだけあっておろおろと成り行きを見守るしかない。

「お前のっ…」
「な、なんなんだよ!」
「翔太兄大丈夫っ?」

鼻血が伝り顎からぽたとこぼれおちる。口元を押さえていた手を離すと、前歯が一本欠けてしまっていた。

「お前が来てからロクなことがねぇ!」

涙目で翔太が健二へ向かって叫ぶ。

「夏希は馬鹿だしよ、ばあちゃんは死ぬしよ! 佳主馬には殴られるしよ!」

怒りで興奮を抑えきれない佳主馬は未だにじたばたと殴りかかることを諦めていない。はそんな佳主馬の肩に手を静かに添えた。佳主馬が見上げた先にいたは寂しげな表情で、自分が悪いわけではないのに謝罪を述べているよう。むしろキング・カズマのピンチを救い大活躍をしたというのに。まぁそれも、翔太のおかげで台無しになってしまったわけなのだが。

「言いたくないけど、言いわせて」

情けない姿の兄を、今度は哀れむような瞳で見つめる。

「電気屋の息子なのにPCの扱いも知らないわけ?」

突き刺さるような冷たい視線に、向けられている翔太だけでなく太助までも臆する。

「これスパコンだよ、どれだけ熱持つと思ってるの。普通のPC一台で使ってるわけじゃないんだよ?」
っ」
「夏希が馬鹿なのは前からでしょ! 栄おばあちゃんが死んだのだって寿命だって言ってた! 佳主馬に殴られたのは間違いなくお兄ちゃんが悪い!!」

父である太助が躊躇したというのに娘であるは遠慮という言葉を知らないようで、息継ぎもせず言い放った。勿論自身は遠慮という言葉を十分に理解している、だが遠慮などしている状況だろうか?佳主馬のように殴りつけてやりたくもなるだろう、のように怒鳴りつけてやりたくもなるだろう。勝っていたのに。

そうだ、勝てたのに。

感情の篭ったその口調は正に翔太と口喧嘩をするときのもので、馬鹿じゃないのかと罵倒する。折角仲良くなりつつあった関係がまたも振り出しに戻ってしまうかもしれないのは悔しいとは思いつつも、は黙っていられなかった。佳主馬がこんなにも頑張って、皆で協力して、遠く東京にいる健二の友人である佐久間までもが手伝ってくれ勝利を確信した矢先に。不甲斐なくも自分の兄が、全てを台無しにしてしまったのだ。これまでにないほどの深い溜息と共にの肩ががっくりと落ちる。

ゲーム好きといえど負けた腹いせに八つ当たりをするような理不尽な妹ではないことは、翔太だって知っている。よく周囲を観察すれば、池にはここでは一度も目にしたことの無い漁船が何故か浮いているし、庭には漁船同様場違いな軍が所有していそうな、それこそバレたらクビが飛ぶだけで済むのか疑問視されるような車がある。こんな大きなコンピュータだって、たかがゲームのためだけに準備しないだろう。の様子に流石に自分が大変なことをしてしまったのだと察知したようで、怒り一色だった表情が不安気に変化していく。

『ワールドクロックが…』

スピーカから聞こえてくる異音に健二がディスプレイを向き、息を呑む。気付いた佳主馬やもディスプレイの様子に言葉を失った。

「…狂ってる」

読み取れないほどの早さでランダムに数字を表示させるワールドクロック。翔太も立ち上がり、ディスプレイをじっと見つめる。誰もが成す術がなく、次のアクションを黙って待つしかない。緊張でつい呼吸が荒くなるのを感じながらも、冷静になることができなかった。

ミリ秒から数値が確定していき、次に秒、分、時が明確なりワールドクロックは02:10:00:00を表示させた。けれども今の日本時刻とは一致しない数字に、の脳裏に不安が過ぎる。
的中して欲しくない考えほど的中してしまうもので、10の数値は一つ小さい09に変わるとカウントダウンを刻みだす。

「なんの…カウントダウンだ…?」