小学校の頃いじめにあってからずっと、佳主馬は万助に少林寺拳法を教わっていて、師匠と弟子という関係は今でも変わらない。直接の稽古をつけてもらうときは決まってここの庭で、けれど今そこにある姿は佳主馬一人だけだった。
少林寺拳法とは人づくりの行であり、ただの肉体的な護身鍛錬だけではなく、精神的な修養も兼ねている。力ばかりが強くてもそれは真の強さとは呼べない、真の強さとは心にありその教えの中心思想こそが自己確立、そして自他共楽。佳主馬がいじめから解放されたのも、その思想を万助から教わったからこそ。それを全て忘れてしまったかのように、今の佳主馬は心が乱れきっていた。オートモードのコンピュータ相手だというのに戦局は惨敗、所謂スランプというやつだ。昨日までどうやって、どのタイミングでコマンドを入力していたのか綺麗さっぱり忘れてしまい、感覚を微塵も呼び戻せない。
(理由なら、分かってる)
「佳主馬」
名前を呼ばれ向いた視線の先に居たのは、。
お盆にグラスを二つのせ、縁側に立っていた。
今年の夏は去年よりも暑い。屋外では直射日光を浴びるおかげでただ立っているだけだというのに汗が背中を伝うし、屋内では風の通り道でない限り逃げ切れない暑さがこもりっきりで肌から滲み出る汗を止められない。一階よりも二階の方が暑いことから分かるように、座っているよりも立っている方が暑さの膜に覆われているということだ。いつもならやんわりと笑みを浮かべてに歩みよる佳主馬だが、どうしてもそんな気分にはなれず、出来ればグラスだけ置いて早々に立ち去って欲しかった。
けれどは気遣いで立ったまま佳主馬を待ってくれている。いつもなら自分がの元へ行くまで同じ状況で待ってくれていることが嬉しいと感じるのに。座ればいいのに、と内心ぼやきながらも白くて細い体がこの暑さに負けてしまうことを恐れ、重い足を動かす。
「水分、こまめに取らないと」
決して指が触れ合わないように慎重にグラスを受け取り口元に淵を寄せるが、流し込もうとはしなかった。この暑さで氷の溶ける進度は尋常ではなく、冷えていた麦茶がぬるくなるのもあっという間。何をしていなくても身体の水分は汗として皮膚の穴から放出されるため、飲み物を欲しがり皆が何度も台所にある冷蔵庫へと手を伸ばす。長期の夏休みともなれば陣内家に集まる親戚の数は他では想像できないほどで、何に関しても減りようは倍以上になる。いくら麦茶や氷を作り置きしておいても、気がつくと空になっていて追いつかない。
男性陣がそこまで気がきくわけもなく、大抵気がついてやってくれるのはだったりするのだ。
「何か、あった?」
風鈴の音と少し遠くから子供たちの騒ぐ声が響くくらいで、少しだけしんみりとした雰囲気の中、直球で聞かれてしまい佳主馬の心臓がはねた。はそういう人だった、自分に正直でどストレート、言い難いことも聞き難いこともずばっと言ってしまうのだ。
「どうして、そう思うの?」
先ほどに比べたら半分くらいにはなった氷がぶつかり合い、からん、と夏らしい音を奏でる。
「昨日までとちょっと違うから、分かるよ」
まるで佳主馬を見ているような口ぶりに、感情が高ぶる。思わせぶりな態度をとるに対するものではなくて、に好意を抱くあまりただ親切にされているだけなのに勘違いしてしまいそうになっていた、愚かな自分に対する罵り。が特別な感情を抱いているのは健二で、自分が入り込める余地なんてはじめからどこにもなかったのだ。なぜなら夏希と健二が上手くいっても尚、は健二に想いを告げるわけでもなく二人の幸福が続くことを願い、自分のことのように喜ぶ。簡単に真似することは出来ない、慈愛の心。
(情けない、馬鹿じゃないの)
「佳主馬?」
急に立ち上がった佳主馬を怪訝に思い、は触れようと腕を伸ばした。
「かず、」
「悪いけど」
苛立ちを隠しきれず怒りを含んだ佳主馬の声色に、思わずの肩が上下する。
「今は姉の顔、見たくないんだ」
背後に気配は感じ取れてもがどんな表情を浮かべているか、そんなことまで分かるほど人間優れてはいない。風が強く吹き、穏やかな気持ちにさせてくれるはずの風鈴の音が耳障りで仕方ないくらいには、今の佳主馬は自分のことだけで手一杯。
「邪魔しちゃって、ごめんね」
お盆を持ち上げる音がこんなにも近いのに遠く聞こえる。きしり、と年代を感じさせる音がたまに鳴り、少しずつの距離が自分から遠のいていくのを聴覚で感じた。それは物理的にだけでなく、精神的にもいえたこと。
「麦茶、飲みなね」
倒れちゃうよと角を曲がる寸前にが言った、たったその一言が、佳主馬の気持ちをどうしようもなく虚しくさせた。慌てて振り返ったけれどもうの姿は死角となり、捉えることは出来なかった。は何一つ悪くないのに悪態をついた、そんな佳主馬をは責め立てるわけでもなくむしろ変わらず気遣ってくれた。
何故か泣いているように聞こえたのはどうしてなのか、佳主馬には理解したくても分からない。もどかしい、悔しい。
「っ、くそ!」
とうとう溶けきった氷が水になる。けれど、麦茶と二層になっただけで交わろうとはしない。ついには味も薄まりぬるくなったそれの最後なんて、分かりきっている。
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