深呼吸を数回繰り返し、ようやく意を決して納戸へ踏み込もうとしたが、その一歩が予想以上にも重くて戸惑う。ヘッドホンをつけ愛用のノートパソコンに向かっている背中を、久しく見ていないような懐かしい感覚に胸がくすぐられた。その姿を視界に入れられたことが嬉しいような、存在が遠くなってしまったことが哀しいような。

「何か用?」

日が落ち活発な動きが静かになってきた中での忙しなさは、一際目立つ。佳主馬にとってそんな中で人の気配を感じ取るのは容易で、振り返りもせずにに問う。どうやって認識しているのかは分からないが、だと理解しての反応のようで、いつものようには中々振り返ろうとしない。躊躇う佳主馬の意思が見えつい苦笑したは、あまりにも自虐的過ぎる。

「ごめんね、邪魔しちゃって」

佳主馬を前にしたらきっと声なんて出せないと思っていただが、なに、いざ前にしてみると案外あっさりと出るものだ。恐ろしいくらいの不安にかられていたのが嘘のように、いつも通りの声色で、むしろ本人が驚いてしまうほど、普通だ。
ヘッドホンを頭から外しついに振り向こうとした佳主馬に、静止の声をかける。

「こっち向かないで。そのまま、聞いて?」

会話をするのに顔を合わせないなんておかしなことを言う、佳主馬はそう思いながらも内心では顔を合わせなくて済むことに安堵した。悪態と取られるような態度をとっただけでなく、なんの非もないを嫌うように避けたのだ。がもしもそれに対して何も思ってないとしても佳主馬自身が後ろめたさ故に、どんな顔をして会えばいいか分からなかったし、悪くも無いにまた酷いことを言ってしまいそうで怖かった。醜い嫉妬だ。

「自分なりに考えてみたんだけれどね、やっぱり思い当たらなくて」

少し寄りかかった引き戸の縁を、ひっきりなしに擦る。いくら声は落ち着いているといっても心はそわそわしっぱなしで、貧乏揺すりのように動いていないと誤魔化しがききそうにもなかった。

「でもあたしが、かっ、かずま、を怒らせてるのは確実だから、ごめんなさい」

名前を声にするのが躊躇われ、詰まった声を強引に吐き出してはみたけれど、それが良くなかった。こみ上げてくる何かを抑え切れそうにもなくて、少しだけ自分が涙声になりかけているのが分かる。泣いてしまっては許しを乞うようなもので、そんな行為が自分に許されるわけがない。ごめんなさい、と謝罪の言葉を述べている時点で何を言ってるんだと指摘されそうなものだが、にとっては涙を流すということが情けを買う行為のような気がして、女であるからこそ余計に耐え抜きたかった。けれど一瞬でも油断が表れてしまったのはやはり、相手が佳主馬だったせいだろう。

「理由も分からないのに謝るのはよくないと思うし、佳主馬も気分が悪いと思うけれど、ごめんなさい」

謝る必要のないに苛立ちを覚えながらもそうさせてしまったのは間違いなく自分なのだと自覚する、そうすると自分がどうしようもない人間に思えた。息に詰まり震えた声を佳主馬は聞き逃さない。そんな風にさせたのだ、自分が。悲しまたいとか、苦しませたいとか、に対してサディスティックな感情なんて少しも持ち合わせているわけすらなかったのに。

「きっと、声も聞きたくないよね」

それなのにごめんなさいと、消え入りそうな声。

「残りの休暇は実家で過ごそうと思うから、安心して。…それじゃあ、ね」

そう言って踵を返したがどうしてそういう結論に至ったのか理解できなくて、佳主馬の頭が真っ白になる。

「実家で過ごすって、どうして?」

脳内はどうしてを永遠と繰り返しているのに体は引き止めないと、と咄嗟に動き、の手首をがっちりと掴んでいた。その気持ちが物理的な力量にも表れてしまったのだろう、引き寄せた力は気持ち以上に強くて負けたがふらり、と体勢を崩すと抵抗する間もなく佳主馬の胸元に雪崩れ込む。戸の仕切りを跨いで納戸にの存在があるのだと思うと、無意識の内に戸を引き、二人を暗がりが包み込んだ。唯一の明かりはノートパソコンのディスプレイだけ。
ぐいっ、と佳主馬の胸元を押し退け見上げたの瞳は動揺と不安でくすみ、佳主馬をどきりとさせた。暗がりのせいなのだろうか、それとも、久しくその瞳を見ていないような気がしたからだろうか。視線が交わったのはほんの一瞬で、拒むようには視線を落とし一歩後退してみたが先は無く、半歩で扉と背中合わせ。

「夕食にも朝食にも出てこないのは、あたしがいるせいでしょう? だから、」
「そんなの今に始まったことじゃないだろ」

そんなのはと親しくなる前からよくあることだった。ただ単に、今となっては東京と名古屋という遠距離のため埋められない共に過ごすという時間を少しでも共有したいがために、以前よりも食卓にいる機会が増えただけの話。

姉の顔が見たくないわけじゃ、ないよ」

見たくないわけがない。

「声だってそうだ」

聞きたくないわけがない。

「許されるなら、もっと傍に近づきたい」
(ねぇ、どこまでなら許される?)

そう思うこと自体が間違っていて、別の誰かを想うにこれ以上近づくなんて、許されることではない。別の誰かを想うの心を、奪いたいわけではないのだから。無理矢理にでも振り向かせたいわけではなく、の意思で自分に好意を持って欲しい。

「けれど見込みが無いなら、これ以上は怖いよ。怖くて仕方ない」

傍に居ればいるほどもっと近づきたいと思う、名前を呼んで欲しいと思う、笑顔を見せて欲しいと思う。欲というものは底知れず、一つ得るとまた更に、そして更にと人を強欲にしていく。そうなってしまったとき、佳主馬はを傷つけない自信がなかった。今だって傷ついたを前に、何もしてやれないどころかまるで自分の感情を押し付けるかのような傲慢な言葉ばかりを向けている。

「見込みが無いって、どういう意味?」
「どういう、って」

一度は視線をそらしたが、まっすぐに佳主馬を見上げていた。次に逃げるよう視線をそらすのは、佳主馬の番。
こうなれば何もかもが音を立てて崩壊したようなも同然。言うなれば、開き直りだ。最終手段というよりも、絡まってしまった誤解を解くための手段として残されているのがもう、佳主馬にはそれしか見当たらなかった。

姉は…健二さんが、好きなんでしょ」